《くぐ》って遁げたのではありますまいが、宮裏の森の下の真暗《まっくら》な中に落重《おちかさな》った山椿の花が、ざわざわと動いて、あとからあとから、乱れて、散って、浮いて来る。……大木の椿も、森の中に、いま燃ゆるように影を分けて、その友だちを覗《のぞ》いたようです。――これはまた見ものになった――見るうちに、列を織って、幾つともなく椿の花が流れて行く。……一町ばかり下《しも》に、そこに第一の水車《みずぐるま》が見えます。四五間さきに水車、また第三の水車、第四、第五と続いたのが見えます。流《ながれ》の折曲る処に、第六のが半輪の月形に覗いていました。――見る内に、その第一の水車の歯へ、一輪紅椿が引掛《ひっかか》った――続いて三ツ四ツ、くるりと廻るうちに七ツ十ウ……たちまちくるくると緋色に累《かさな》ると、直ぐ次の、また次の車へもおなじように引搦《ひっからま》って、廻りながら累るのが、流れる水脚のままなんですから、早いも遅いも考える間はありません。揃って真紅な雪が降積るかと見えて、それが一つ一つ、舞いながら、ちらちらと水晶を溶いた水に揺れます。呆気《あっけ》に取られて、ああ、綺麗だ、綺麗だ、と思ううちに、水玉を投げて、紅《くれない》の※[#「さんずい+散」、70−7]《しぶき》を揚げると、どうでしょう、引いている川添の家《や》ごとの軒より高く、とさかの燃えるように、水柱を、颯《さっ》と揃って挙げました。
 居士が、けたたましく二つ三つ足蹈《あしぶみ》をして、胸を揺《ゆす》って、(火事じゃ、……宿《しゅく》じゃ、おたにの方じゃ――御免。)とひょこひょこと日和下駄《ひよりげた》で駆出しざまに、門を飛び出ようとして、振返って、(やあ、皆も来てくれ。)尋常《ただ》ごとではありません。植木屋|徒《であい》も誘われて、残らずどやどや駆けて出る。私はとぼんとして、一人、離島《はなれじま》に残された気がしたんです。こんな島には、あの怪《あやし》い大鼠も棲《す》もうと思う、何となく、気を打って、みまわしますとね。」
「はあ――」
「ものの三間とは離れません。宮裏に、この地境《じざかい》らしい、水が窪み入った淀《よど》みに、朽ちた欄干ぐるみ、池の橋の一部が落込んで、流《ながれ》とすれすれに見えて、上へ落椿が溜《たま》りました。うつろに、もの寂しくただ一人で、いまそれを見た時に、花がむくむくと動くと、真黒《まっくろ》な面《つら》を出した、――尖《とが》った馬です。」
「や。」
「鼠です。大鼠がずぶずぶと水を刎《は》ねて、鯰《なまず》がギリシャ製の尖兜《とがりかぶと》を頂いたごとく――のそりと立って、黄色い目で、この方をじろりと。」
「…………」
 声は、カーンと響いて、真暗《まっくら》になった。――隧道《トンネル》を抜けるのである。
「思わず畜生! と言ったが夢中で遁《に》げました。水車のあたりは、何にもありません、流《ながれ》がせんせんと響くばかり静まり返ったものです。ですが――お谷さん――もう分ったでしょう。欄干に凭《もた》れて東海道を覗いた三島宿の代表者。……これが生得《うまれつき》絵を見ても毛穴が立つほど鼠が嫌《きらい》なんだと言います。ここにおいて、居士が、騎士《ナイト》に鬢髪《びんぱつ》を染めた次第です。宿《しゅく》のその二階家の前は、一杯の人だかりで……欄干の二階の雨戸も、軒の大戸も、ぴったりと閉まっていました。口々に雑談をするのを聞くと、お谷さんが、朝化粧の上に、七つ道具で今しがた、湯へ行こうと、門の小橋を跨《また》ぎかけて、あッと言った、赤い鼠! と、あ、と声を内へ引いて遁込んで、けたたましい足音で、階子壇《はしごだん》を駆上がると、あれえあれえと二階を飛廻って欄干へ出た。赤い鼠がそこまで追廻したものらしい。キャッとそこで悲鳴を立てると、女は、宙へ、飛上った。粂《くめ》の仙人を倒《さかさま》だ、その白さったら、と消防夫《しごとし》らしい若い奴は怪しからん事を。――そこへ、両手で空《くう》を掴《つか》んで煙を掻分《かきわ》けるように、火事じゃ、と駆《かけ》つけた居士が、(やあ、お谷、軒をそれ火が嘗《な》めるわ、ええ何をしとる)と太鼓ぬけに上って、二階へ出て、縁に倒れたのを、――その時やっと女中も手伝って、抱込んだと言います。これじゃ戸をしめずにはおられますまい。」
「驚きました、実に驚きましたな……三島一と言いながら、海道一の、したたかな鼠ですな。」
 自動車は隧道《トンネル》へ続けて入った。
「国境を越えましたよ。」
 と主人が言った。

「……時に、お話につれて申すようですけれども、それを伺ってはどうやら黙っておられないような気がしますので。……さあ、しかもちょうど、昨年、その頃です。江の浦口野の入海《いりうみ》へ漾《ただよ》った、漂流物がありましてな、一頃《ひところ》はえらい騒ぎでございましたよ。浜方で拾った。それが――困りましたな――これもお話の中《うち》にありましたが、大《おおき》な青竹の三尺余のずんどです。
 一体こうした僻地《へきち》で、これが源氏の畠《はたけ》でなければ、さしずめ平家の落人《おちゅうど》が隠れようという処なんで、毎度|怪《あやし》い事を聞きます。この道が開けません、つい以前の事ですが。……お待ち下さい……この浦一円は鰯《いわし》の漁場で、秋十月の半ばからは袋網というのを曳《ひ》きます、大漁となると、大袈裟《おおげさ》ではありません、海岸三里四里の間、ずッと静浦《しずうら》の町中《まちなか》まで、浜一面に鰯を乾《ほ》します。畝《あぜ》も畑もあったものじゃありません、廂下《ひさしした》から土間の竈《かまど》まわりまで、鰯を詰込んで、どうかすると、この石柵の上まで敷詰める。――ところが、大漁といううちにも、その時は、また夥多《おびただし》く鰯があがりました。獅子浜在の、良介に次吉《じきち》という親子が、気を替えて、烏賊釣《いかつり》に沖へ出ました。暗夜《やみ》の晩で。――しかし一|尾《ぴき》もかかりません。思切って船を漕戻《こぎもど》したのが子《ね》の刻過ぎで、浦近く、あれ、あれです、……あの赤島のこっちまで来ると、かえって朦朧《もうろう》と薄あかりに月がさします。びしゃりびしゃり、ばちゃばちゃと、舷《ふなべり》で黒いものが縺《もつ》れて泳ぐ。」
「鼠。」
「いや、お待ち下さい、人間で。……親子は顔を見合わせたそうですが、助け上げると、ぐしょ濡れの坊主です。――仔細《しさい》を聞いても、何にも言わない。雫《しずく》の垂る細い手で、ただ、陸《おか》を指《ゆびさ》して、上げてくれ、と言うのでしてな。」
「可厭《いや》だなあ。」
「上げるために助けたのだから、これに異議はありません。浜は、それ、その時大漁で、鰯の上を蹈《ふ》んで通る。……坊主が、これを皆食うか、と云った。坊主だけに鰯を食うかと聞くもいいが、ぬかし方が頭横柄《ずおうへい》で。……血の気の多い漁師です、癪《しゃく》に触ったから、当り前《めえ》よ、と若いのが言うと、(人間の食うほどは俺《おれ》も食う、)と言いますとな、両手で一|掴《つか》みにしてべろべろと頬張りました。頬張るあとから、取っては食い、掴んでは食うほどに、あなた、だんだん腹這《はらば》いにぐにゃぐにゃと首を伸ばして、ずるずると鰯の山を吸込むと、五|斛《こく》、十斛、瞬く間に、満ちみちた鰯が消えて、浜の小雨は貝殻をたたいて、暗い月が砂に映ったのです。(まだあるか、)と仰向《おあおむ》けに起きた、坊主の腹は、だぶだぶとふくれて、鰯のように青く光って、げいと、口から腥《なまぐさ》い息を吹いた。随分大胆なのが、親子とも気絶しました。鮟鱇《あんこう》坊主《ぼうず》と、……唯今でも、気味の悪い、幽霊の浜風にうわさをしますが、何の化ものとも分りません。――
 といった場処で。――しかし、昨年――今度の漂流物は、そんな可厭《いや》らしいものではないので。……青竹の中には、何ともたとえがたない、美しい女像がありました。ところが、天女のようだとも言えば、女神の船玉様の姿だとも言いますし、いや、ぴらぴらの簪《かんざし》して、翡翠《ひすい》の耳飾を飾った支那《しな》の夫人の姿だとも言って、現に見たものがそこにある筈《はず》のものを、確《しか》と取留めたことはないのでございますが、手前が申すまでもありません。いわゆる、流れものというものには、昔から、種々の神秘な伝説がいくらもあります。それが、目の前へ、その不思議が現われて来たものなんです。第一、竹筒ばかりではない。それがもう一重《ひとえ》、セメン樽《だる》に封じてあったと言えば、甚しいのは、小さな櫂《かい》が添って、箱船に乗せてあった、などとも申します。
 何しろ、美《うつくし》い像だけは事実で。――俗間で、濫《みだり》に扱うべきでないと、もっともな分別です。すぐに近間《ちかま》の山寺へ――浜方一同から預ける事にしました。が、三日も経《た》たないのに、寺から世話人に返して来ました。預った夜《よ》から、いままでに覚えない、凄《すさま》じい鼠の荒れ方で、何と、昼も騒ぐ。……(困りましたよ、これも、あなたのお話について言うようですが)それが皆その像を狙《ねら》うので、人手は足りず、お守をしかねると言うのです。猫を紙袋《かんぶくろ》に入れて、ちょいとつけばニャンと鳴かせる、山寺の和尚さんも、鼠には困った。あと、二度までも近在の寺に頼んだが、そのいずれからも返して来ます。おなじく鼠が掛《かか》るので。……ところが、最初の山寺でもそうだったと申しますが、鼠が女像の足を狙う。……朝顔を噛《か》むようだ。……唯今でも皆がそう言うのでございますがな、これが変です。足を狙うのが、朝顔を噛むようだ。爪さきが薄く白いというのか、裳《もすそ》、褄《つま》、裾《すそ》が、瑠璃《るり》、青、紅《あか》だのという心か、その辺が判明《はっきり》いたしません。承った処では、居士だと、牡丹《ぼたん》のおひたしで、鼠は朝顔のさしみですかな。いや、お話がおくれましたが、端初《はな》から、あなた――美しい像は、跣足《はだし》だ。跣足が痛わしい、お最惜《いとし》い……と、てんでに申すんですが、御神体は格段……お仏像は靴を召さないのが多いようで、誰もそれを怪《あやし》まないのに、今度の像に限って、おまけに、素足とも言わない、跣足がお痛わしい――何となく漂泊流離の境遇、落ちゅうどの様子があって、お最惜い。そこを鼠が荒すというのは、女像全体にかかる暗示の意味が、おのずから人の情に憑《うつ》ったのかも知れません。ところで、浜方でも相談して、はじめ、寄り着かれた海岸近くに、どこか思召しにかなった場所はなかろうかと、心して捜すと、いくらもあります。これは陸《おか》で探るより、船で見る方が手取《てっと》り早うございますよ。樹の根、巌《いわ》の角、この巌山の切崖《きりぎし》に、しかるべき室《むろ》に見立てられる巌穴がありました。石工《いしや》が入って、鑿《のみ》で滑《なめらか》にして、狡鼠《わるねずみ》を防ぐには、何より、石の扉をしめて祭りました。海で拾い上げたのが巳《み》の日だった処から、巳の日様。――しかし弁財天の御縁日だというので、やがて、皆《みんな》が(巳の時様)。――巳の時様、とそう云っているのでございます。朝に晩に、聞いて存じながら、手前はまだ拝見しません。沼津、三島へ出ますにも、ここはぐっと大廻りになります。出掛けるとなると、いつも用事で、忙しいものですから。……
 ――御都合で、今日、御案内かたがた、手前も拝見をしましても……」
「願う処ですな。」
 そこで、主人が呼掛けようとしたらしい運転手は、ふと辰さん(運転手)の方で輪を留めた。
「どうした。」
 あたかもまた一つ、颯《さっ》と冷い隧道《トンネル》の口である。
「ええ、あの出口へ自動車が。」
「おおそうか。……ええ、むやみに動かしては危《あぶな》いぞ。」
「むこうで、かわしたようです。」
 隧道《トンネル》を、爆音を立てながら、一息に乗り越すと
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