、ハッとした、出る途端に、擦違《すれちが》うように先方《さき》のが入った。
「危え、畜生!」
喚《わめ》くと同時に、辰さんは、制動機を掛けた。が、ぱらぱらと落ちかかる巌膚《いわはだ》の清水より、私たちは冷汗になった。乗違えた自動車は、さながら、蔽《おお》いかかったように見えて、隧道《トンネル》の中へ真暗《まっくら》に消えたのである。
主人が妙に、寂しく笑って、
「何だか、口の尖《とん》がった、色の黒い奴が乗っていたようですぜ。」
「隧道《トンネル》の中へ押立《おった》った耳が映ったようだね。」
と記者が言った。
「辰さん。」
いま、出そうとする運転手を呼んで、
「巳の時さん――それ、女像の寄り神を祭ったというのは、もっと先方《さき》だっけね。」
「旦那、通越《とおりこ》しました。」
「おや、はてな、獅子浜へ出る処だと思ったが。」
「いいえ、多比の奥へ引込んだ、がけの処です。」
「ああ、竜が、爪で珠をつかんでいようという肝心の処だ。……成程。」
「引返しましょうよ。」
「車はかわります。」
途中では、遥《はるか》に海ぞいを小さく行《ゆ》く、自動車が鼠の馳《はし》るように見えて、岬《みさき》にかくれた。
山藤が紫に、椿が抱いた、群青《ぐんじょう》の巌《いわ》の聳《そび》えたのに、純白な石の扉の、まだ新しいのが、ひたと鎖《とざ》されて、緋《ひ》の椿の、落ちたのではない、優《やさし》い花が幾組か祠《ほこら》に供えてあった。その花には届くが、低いのでも階子《はしご》か、しかるべき壇がなくては、扉には触れられない。辰さんが、矗立《しゅくりつ》して、巌《いわ》の根を踏んで、背のびをした。が、けたたましく叫んで、仰向《あおむ》けに反《そ》って飛んで、手足を蛙《かえる》のごとく刎《は》ねて騒いだ。
おなじく供えた一束の葉の蔭に、大《おおき》な黒鼠が耳を立て、口を尖《とが》らしていたのである。
憎い畜生かな。
石を打つは、その扉を敲《たた》くに相同じい。まして疵《きず》つくるおそれあるをや。
「自動車が持つ、ありたけの音を、最高度でやッつけたまえ。」
と記者が云った。
運転手は踊躍《こおどり》した。もの凄《すさ》まじい爆音を立てると、さすがに驚いたように草が騒いだ。たちまち道を一飛びに、鼠は海へ飛んで、赤島に向いて、碧色《へきしょく》の波に乗った。
――馬だ――馬だ――馬だ――
遠く叫んだ、声が響いて、小さな船は舳《みよし》を煽《あお》り、漁夫は手を挙げた。
その泳いだ形容は、読者の想像に任せよう。
巳の時の夫人には、後日の引見を懇請して、二人は深く礼した。
そのまま、沼津に向って、車は白鱗青蛇《はくりんせいだ》の背を馳《は》せた。
[#地から1字上げ]大正十五(一九二六)年十月
底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
1942(昭和17)年7月刊行開始
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
2001年9月17日公開
2005年9月26日修正
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