し》になるから、竹の子は掘らないのだと……少《すこし》く幻滅を感じましたが。」
 主人は苦笑した。
「しかし――修善寺で使った、あのくらいなのは、まったく見た事はない、と田京あたりだったでしょう。温泉で、見知越《みしりごし》で、乗合わした男と――いや、その男も実は、はじめて見たなどと話していると、向う側に、革の手鞄《てかばん》と、書もつらしい、袱紗包《ふくさづつみ》を上に置いて、腰を掛けていた、土耳古形《トルコがた》の毛帽子を被《かぶ》った、棗色《なつめいろ》の面長《おもなが》で、髯《ひげ》の白い、黒の紋織《もんおり》の被布《ひふ》で、人がらのいい、茶か花の宗匠といった風の……」
 半ば聞いて頷《うなず》いた。ここで主人の云ったのは、それは浮島禅師《うとうぜんじ》、また桃園居士《とうえんこじ》などと呼ばれる、三島沼津を掛けた高持《たかもち》の隠居で。……何不足のない身の上とて、諸芸に携わり、風雅を楽《たのし》む、就中《なかんずく》、好んで心学一派のごとき通俗なる仏教を講じて、遍《あまね》く近国を教導する知識だそうである。が、内々で、浮島《うとう》をかなで読むお爺さん――浮島爺《うきしまじい》さんという渾名《あだな》のあることも、また主人が附加えた。
「その居士《こじ》が、いや、もし……と、莞爾々々《にこにこ》と声を掛けて、……あれは珍らしい、その訳じゃ、茅野《ちの》と申して、ここから宇佐美の方へ三里も山奥の谷間《たにあい》の村が竹の名所でありましてな、そこの講中が大自慢で、毎年々々、南無大師遍照金剛《なむだいしへんじょうこんごう》でかつぎ出して寄進しますのじゃ……と話してくれました。……それから近づきになって、やがて、富士の白雪あさ日でとけて、とけて流れて三島へ落ちて、……ということに、なったので。」
 自動車が警笛を。
 主人は眉の根に、わざと深く皺《しわ》を寄せて、鼻で撓《た》めるように顔を向けた。
「はてね。」
「いや、とけておちたには違いはありませんがね――三島|女郎衆《じょろしゅ》の化粧の水などという、はじめから、そんな腥《なまぐさ》い話の出よう筈はありません。さきの御仁体でも知れます。もうずッと精進で。……さて、あれほどの竹の、竹の子はどんなだろう。食べたら古今の珍味だろう、というような話から、修善寺の奥の院の山の独活《うど》、これは字も似たり、独鈷《とっこ》うどと称《とな》えて形も似ている、仙家の美膳《びぜん》、秋はまた自然薯《じねんじょ》、いずれも今時の若がえり法などは大俗で及びも着かぬ。早い話が牡丹《ぼたん》の花片《はなびら》のひたしもの、芍薬《しゃくやく》の酢味噌あえ。――はあはあと、私が感に入って驚くのを、おかしがって、何、牡丹のひたしものといった処で、一輪ずつ枝を折る殺風景には及ばない、いけ花の散ったのを集めても結構よろしい。しかし、贅沢といえば、まことに蘭飯《らんぱん》と称して、蘭の花をたき込んだ飯がある、禅家の鳳膸《ほうずい》、これは、不老の薬と申しても可《い》い。――御主人――これなら無事でしょう。まずこの辺までは芥川さんに話しても、白い頬を窪まし、口許《くちもと》に手を当てて頷《うなず》いていましょうがね、……あとが少しむずかしい。――
 私はその時は、はじめから、もと三島へ下りて、一汽車だけ、いつも電車でばかり見て通る、あの、何とも言えない路傍《みちばた》の綺麗な流《ながれ》を、もっとずッと奥まで見たいと思っていましたから。」
「すなわち、化粧の水ですな。」
「お待ちなさい。そんな流《ながれ》の末じゃあ決してない。朝日でとけた白雪を、そのまま見たかったのに相違ないのです。三島で下りると言うと、居士が一所に参って、三島の水案内をしようと言います。辞退をしましたが、いや、是非ひとつ、で、私は恐縮をしたんですがね。実は余り恐縮をしなくても可《よ》さそうでしたよ。御隠居様、御機嫌よう、と乗合わせた近まわりの人らしいのが、お婆さんも、娘も、どこかの商人らしいのも、三人まで、小さな荷ですが一つ一つ手伝いましてね、なかなかどうして礼拝されます。が、この人たちの前、ちと三島で下りるのが擽《くすぐ》ったかったらしい。いいかこつけで、私は風流の道づれにされた次第だ。停車場《ステェション》前の茶店も馴染《なじみ》と見えて、そこで、私のも一所に荷を預けて、それから出掛けたんですが――これがずッとそれ、昔の東海道、箱根のお関所を成りたけ早めに越して、臼《うす》ころばしから向う阪をさがりに、見ると、河原前の橋を掛けてこの三島の両側に、ちらちら灯が見えようというのでと――どこか、壁張りの古い絵ほどに俤《おもかげ》の見える、真昼で、ひっそりした町を指さされたあたりから、両側の家の、こう冷い湿《しめっ》ぽい裡《なか》から、暗い白粉《おしろい》だの、赤い油だのが、何となく匂って来ると――昔を偲《しの》ぶ、――いや、宿《しゅく》のなごりとは申す条、通り筋に、あらわな売色のかかる体裁は大《おおい》に風俗を害しますわい、と言う。その右斜《みぎななめ》な二階の廊下に、欄干に白い手を掛けて立っていた、媚《なまめ》かしい女があります。切組の板で半身です、が、少し伸上るようにしたから、帯腰がすらりと見える。……水浅葱《みずあさぎ》の手絡《てがら》で円髷《まるまげ》に艶々《つやつや》と結ったのが、こう、三島の宿を通りかかる私たちの上から覗《のぞ》くように少し乗出したと思うと、――えへん!……居士が大《おおき》な咳《せき》をしました。女がひょいと顔をそらして廂《ひさし》へうつむくと、猫が隣りから屋根づたいに、伝うのです。どうも割合に暑うごすと、居士は土耳古帽《トルコぼう》を取って、きちんと畳んだ手拭《てぬぐい》で、汗を拭《ふ》きましたっけ。……」
 主人も何となく中折帽《なかおれぼう》の工合《ぐあい》を直して、そしてクスクスと笑った。
「御主人の前で、何も地理を説く要はない。――御修繕中でありました。神社へ参詣をして、裏門の森を抜けて、一度ちょっと田畝道《たんぼみち》を抜けましたがね、穀蔵《こくぐら》、もの置蔵などの並んだ処を通って、昔の屋敷町といったのへ入って、それから榎《えのき》の宮八幡宮――この境内が、ほとんど水源と申して宜《よろ》しい、白雪のとけて湧《わ》く処、と居士が言います。……榎は榎、大楠《おおくす》、老樫《ふるかし》、森々《しんしん》と暗く聳《そび》えて、瑠璃《るり》、瑪瑙《めのう》の盤、また薬研《やげん》が幾つも並んだように、蟠《わだかま》った樹の根の脈々、巌《いわ》の底、青い小石一つの、その下からも、むくむくとも噴出さず、ちろちろちろちろと銀の鈴の舞うように湧いています。不躾《ぶしつけ》ですが、御手洗《みたらし》で清めた指で触って見ました。冷い事、氷のようです。湧いて響くのが一粒ずつ、掌《てのひら》に玉を拾うそうに思われましたよ。
 あとへ引返して、すぐ宮前の通《とおり》から、小橋を一つ、そこも水が走っている、門ばかり、家は形もない――潜門《くぐりもん》を押して入ると――植木屋らしいのが三四人、土をほって、運んでいました。」
 ――別荘の売りものを、料理屋が建直すのだったそうである。
「築山のあとでしょう。葉ばかりの菖蒲《あやめ》は、根を崩され、霧島が、ちらちらと鍬《くわ》の下に見えます。おお御隠居様、大旦那、と植木屋は一斉に礼をする。ちょっと邪魔をしますよ。で、折れかかった板橋を跨《また》いで、さっと銀をよないだ一幅《いっぷく》の流《ながれ》の汀《なぎさ》へ出ました。川というより色紙形の湖です。一等、水の綺麗な場所でな。居士が言いましたよ。耕地が一面に向うへ展《ひら》けて、正面に乙女峠が見渡される……この荒庭のすぐ水の上が、いま詣《もう》でた榎の宮裏で、暗いほどな茂りです。水はその陰から透通る霞のように流れて、幅十間ばかり、水筋を軽くすらすらと引いて行《ゆ》きます。この水面に、もし、ふっくりとした浪が二ツ処立ったら、それがすぐに美人の乳房に見えましょう。宮の森を黒髪にして、ちょうど水脈の血に揺らぐのが真白《まっしろ》な胸に当るんですね、裳《すそ》は裾野をかけて、うつくしく雪に捌《さば》けましょう。――
 椿《つばき》が一輪、冷くて、燃えるようなのが、すっと浮いて来ると、……浮藻《うきも》――藻がまた綺麗なのです。二丈三丈、萌黄色《もえぎいろ》に長く靡《なび》いて、房々と重《かさな》って、その茂ったのが底まで澄んで、透通って、軟《やわらか》な細い葉に、ぱらぱらと露を丸く吸ったのが水の中に映るのですが――浮いて通るその緋色《ひいろ》の山椿が……藻のそよぐのに引寄せられて、水の上を、少し斜《ななめ》に流れて来て、藻の上へすっと留まって、熟《じっ》となる。……浅瀬もこの時は、淵《ふち》のように寂然《しん》とする。また一つ流れて来ます。今度は前の椿が、ちょっと傾いて招くように見えて、それが寄るのを、いま居た藻の上に留めて、先のは漾《ただよ》って、別れて行く。
 また一輪浮いて来ます。――何だか、天の川を誘い合って、天女の簪《かんざし》が泳ぐようで、私は恍惚《うっとり》、いや茫然《ぼうぜん》としたのですよ。これは風情じゃ……と居士も、巾着《きんちゃく》じめの煙草入の口を解いて、葡萄《ぶどう》に栗鼠《りす》を高彫《たかぼり》した銀|煙管《ぎせる》で、悠暢《ゆうちょう》としてうまそうに喫《の》んでいました。
 目の前へ――水が、向う岸から両岐《ふたつ》に尖《とが》って切れて、一幅《ひとはば》裾拡《すそひろ》がりに、風に半幅を絞った形に、薄い水脚が立った、と思うと、真黒《まっくろ》な面《つら》がぬいと出ました。あ、この幽艶《ゆうえん》清雅な境へ、凄《すさ》まじい闖入者《ちんにゅうしゃ》! と見ると、ぬめりとした長い面が、およそ一尺ばかり、左右へ、いぶりを振って、ひゅっひゅっと水を捌《さば》いて、真横に私たちの方へ切って来る。鰌《どじょう》か、鯉《こい》か、鮒《ふな》か、鯰《なまず》か、と思うのが、二人とも立って不意に顔を見合わせた目に、歴々《ありあり》と映ると思う、その隙もなかった。
 ――馬じゃ……
 と居士が、太《ひど》く怯《おび》えた声で喚《わめ》いた。私もぎょっとして後《あと》へ退《さが》った。
 いや、嘘のような話です――遥《はるか》に蘆《あし》の湖《こ》を泳ぐ馬が、ここへ映ったと思ったとしてもよし、軍書、合戦記の昔をそのまま幻に視《み》たとしても、どっち道夢見たように、瞬間、馬だと思ったのは事実です。
 やあい、そこへ遁《に》げたい……泳いでらい、畜生々々。わんぱくが、四五人ばらばらと、畠《はたけ》の縁《へり》へ両方から、向う岸へ立ちました。
 ――鼠じゃ……鼠じゃ、畜生めが――
 と居士がはじめて言ったのです。ばしゃんばしゃん、氷柱《ひょうちゅう》のように水が刎《は》ねる、小児《こども》たちは続けさまに石を打った。この騒ぎに、植木屋も三人ばかり、ずッと来て、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ……と感に堪えて見ている。
 見事なものです。実際|巧《たくみ》に泳ぐ。が、およそ中流の処を乗切れない。向って前へ礫《つぶて》が落ちると、すっと引く。横へ飛ぶと、かわして避ける。避けつつ渡るのですから間がありました。はじめは首だけ浮いたのですが、礫を避けるはずみに飛んで浮くのが見えた時は可恐《おそろし》い兀斑《はげまだら》の大鼠で。畜生め、若い時は、一手《ひとて》、手裏剣も心得たぞ――とニヤニヤと笑いながら、居士が石を取って狙《ね》ったんです。小児《こども》の手からは、やや着弾距離を脱して、八方《はちぶ》こっちへ近づいた処を、居士が三度続けて打った。二度とも沈んで、鼠の形が水面から見えなくなっては、二度とも、むくむくと浮いて出て、澄ましてまた水を切りましたがね、あたった! と思う三度の時には、もう沈んだきり、それきりまるで見えなくなる。……
 水は清く流れました、が、風が少し出ましてね、何となくざっと鳴ると、……まさか、そこへ――水を潜
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