唯今でも皆がそう言うのでございますがな、これが変です。足を狙うのが、朝顔を噛むようだ。爪さきが薄く白いというのか、裳《もすそ》、褄《つま》、裾《すそ》が、瑠璃《るり》、青、紅《あか》だのという心か、その辺が判明《はっきり》いたしません。承った処では、居士だと、牡丹《ぼたん》のおひたしで、鼠は朝顔のさしみですかな。いや、お話がおくれましたが、端初《はな》から、あなた――美しい像は、跣足《はだし》だ。跣足が痛わしい、お最惜《いとし》い……と、てんでに申すんですが、御神体は格段……お仏像は靴を召さないのが多いようで、誰もそれを怪《あやし》まないのに、今度の像に限って、おまけに、素足とも言わない、跣足がお痛わしい――何となく漂泊流離の境遇、落ちゅうどの様子があって、お最惜い。そこを鼠が荒すというのは、女像全体にかかる暗示の意味が、おのずから人の情に憑《うつ》ったのかも知れません。ところで、浜方でも相談して、はじめ、寄り着かれた海岸近くに、どこか思召しにかなった場所はなかろうかと、心して捜すと、いくらもあります。これは陸《おか》で探るより、船で見る方が手取《てっと》り早うございますよ。樹の根、巌《いわ》の角、この巌山の切崖《きりぎし》に、しかるべき室《むろ》に見立てられる巌穴がありました。石工《いしや》が入って、鑿《のみ》で滑《なめらか》にして、狡鼠《わるねずみ》を防ぐには、何より、石の扉をしめて祭りました。海で拾い上げたのが巳《み》の日だった処から、巳の日様。――しかし弁財天の御縁日だというので、やがて、皆《みんな》が(巳の時様)。――巳の時様、とそう云っているのでございます。朝に晩に、聞いて存じながら、手前はまだ拝見しません。沼津、三島へ出ますにも、ここはぐっと大廻りになります。出掛けるとなると、いつも用事で、忙しいものですから。……
――御都合で、今日、御案内かたがた、手前も拝見をしましても……」
「願う処ですな。」
そこで、主人が呼掛けようとしたらしい運転手は、ふと辰さん(運転手)の方で輪を留めた。
「どうした。」
あたかもまた一つ、颯《さっ》と冷い隧道《トンネル》の口である。
「ええ、あの出口へ自動車が。」
「おおそうか。……ええ、むやみに動かしては危《あぶな》いぞ。」
「むこうで、かわしたようです。」
隧道《トンネル》を、爆音を立てながら、一息に乗り越すと、ハッとした、出る途端に、擦違《すれちが》うように先方《さき》のが入った。
「危え、畜生!」
喚《わめ》くと同時に、辰さんは、制動機を掛けた。が、ぱらぱらと落ちかかる巌膚《いわはだ》の清水より、私たちは冷汗になった。乗違えた自動車は、さながら、蔽《おお》いかかったように見えて、隧道《トンネル》の中へ真暗《まっくら》に消えたのである。
主人が妙に、寂しく笑って、
「何だか、口の尖《とん》がった、色の黒い奴が乗っていたようですぜ。」
「隧道《トンネル》の中へ押立《おった》った耳が映ったようだね。」
と記者が言った。
「辰さん。」
いま、出そうとする運転手を呼んで、
「巳の時さん――それ、女像の寄り神を祭ったというのは、もっと先方《さき》だっけね。」
「旦那、通越《とおりこ》しました。」
「おや、はてな、獅子浜へ出る処だと思ったが。」
「いいえ、多比の奥へ引込んだ、がけの処です。」
「ああ、竜が、爪で珠をつかんでいようという肝心の処だ。……成程。」
「引返しましょうよ。」
「車はかわります。」
途中では、遥《はるか》に海ぞいを小さく行《ゆ》く、自動車が鼠の馳《はし》るように見えて、岬《みさき》にかくれた。
山藤が紫に、椿が抱いた、群青《ぐんじょう》の巌《いわ》の聳《そび》えたのに、純白な石の扉の、まだ新しいのが、ひたと鎖《とざ》されて、緋《ひ》の椿の、落ちたのではない、優《やさし》い花が幾組か祠《ほこら》に供えてあった。その花には届くが、低いのでも階子《はしご》か、しかるべき壇がなくては、扉には触れられない。辰さんが、矗立《しゅくりつ》して、巌《いわ》の根を踏んで、背のびをした。が、けたたましく叫んで、仰向《あおむ》けに反《そ》って飛んで、手足を蛙《かえる》のごとく刎《は》ねて騒いだ。
おなじく供えた一束の葉の蔭に、大《おおき》な黒鼠が耳を立て、口を尖《とが》らしていたのである。
憎い畜生かな。
石を打つは、その扉を敲《たた》くに相同じい。まして疵《きず》つくるおそれあるをや。
「自動車が持つ、ありたけの音を、最高度でやッつけたまえ。」
と記者が云った。
運転手は踊躍《こおどり》した。もの凄《すさ》まじい爆音を立てると、さすがに驚いたように草が騒いだ。たちまち道を一飛びに、鼠は海へ飛んで、赤島に向いて、碧色《へきしょく》の波に乗った。
――馬だ――
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