半島一奇抄
泉鏡花
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)相乗《あいのり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一台|大《おおい》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+散」、70−7]《しぶき》
−−
「やあ、しばらく。」
記者が掛けた声に、思わず力が入って、運転手がはたと自動車を留めた。……実は相乗《あいのり》して席を並べた、修善寺の旅館の主人の談話を、ふと遮った調子がはずんで高かったためである。
「いや、構わず……どうぞ。」
振向いた運転手に、記者がちょっとてれながら云ったので、自動車はそのまま一軋《ひときし》りして進んだ。
沼津に向って、浦々の春遅き景色を馳《はし》らせる、……土地の人は(みっと)と云う三津《みと》の浦を、いま浪打際とほとんどすれすれに通る処《ところ》であった。しかし、これは廻り路《みち》である。
小暇を得て、修善寺に遊んだ、一――新聞記者は、暮春の雨に、三日ばかり降込められた、宿の出入りも番傘で、ただ垂籠《たれこ》めがちだった本意《ほい》なさに、日限《ひぎり》の帰路を、折から快晴した浦づたい。――「当修善寺から、口野浜《くちのはま》、多比《たひ》の浦、江の浦、獅子浜《ししはま》、馬込崎と、駿河湾《するがわん》を千本の松原へ向って、富士御遊覧で、それが自動車と来た日には、どんな、大金持ちだって、……何、あなた、それまでの贅沢《ぜいたく》でございますよ。」と番頭の膝《ひざ》を敲《たた》いたのには、少分の茶代を出したばかりの記者は、少からず怯《おびや》かされた。が、乗りかかった船で、一台|大《おおい》に驕《おご》った。――主人が沼津の町へ私用がある。――そこで同車で乗出した。
大仁《おおひと》の町を過ぎて、三福《さんぷく》、田京《たきょう》、守木、宗光寺畷《そうこうじなわて》、南条――といえば北条の話が出た。……四日町を抜けて、それから小四郎の江間、長塚を横ぎって、口野、すなわち海岸へ出るのが順路であった。……
うの花にはまだ早い、山田|小田《おだ》の紫雲英《げんげ》、残《のこん》の菜の花、並木の随処に相触れては、狩野《かの》川が綟子《もじ》を張って青く流れた。雲雀《ひばり》は石山に高く囀《さえず》って、鼓草《たんぽぽ》の綿がタイヤの煽《あおり》に散った。四日町は、新しい感じがする。両側をきれいな細流が走って、背戸、籬《まがき》の日向《ひなた》に、若木の藤が、結綿《ゆいわた》の切《きれ》をうつむけたように優しく咲き、屋根に蔭つくる樹の下に、山吹が浅く水に笑う……家ごとに申合せたようである。
記者がうっかり見愡《みと》れた時、主人が片膝を引いて、前へ屈《かが》んで、「辰さん――道普請がある筈《はず》だが前途《さき》は大丈夫だろうかね。」「さあ。」「さあじゃないよ、それだと自動車は通らないぜ。」「もっとも半月の上になりますから。」と運転手は一筋路を山の根へ見越して、やや反《そ》った。「半月の上だって落着いている処じゃないぜ。……いや、もうちと後路《あと》で気をつけようと、修善寺を出る時から思っていながら、お客様と話で夢中だった。――」「何、海岸まわりは出来ないのですかね。」「いいえ、南条まで戻って、三津へ出れば仔細《しさい》ありませんがな、気の着かないことをした。……辰さん、一度聞いた方がいいぜ。」「は、そういたしましょう。」「恐ろしく丁寧になったなあ。」と主人は、目鼻をくしゃくしゃとさせて苦笑して、茶の中折帽《なかおれぼう》を被《かぶ》り直した。「はやい方が可《い》い、聞くのに――」けれども山吹と藤のほか、村路《むらみち》の午《ひる》静《しずか》に、渠等《かれら》を差覗《さしのぞ》く鳥の影もなかった。そのかわり、町の出はずれを国道へついて左へ折曲ろうとする角家の小店《こみせ》の前に、雑貨らしい箱車を置いて休んでいた、半纏着《はんてんぎ》の若い男は、軒の藤を潜《くぐ》りながら、向うから声を掛けた。「どこへ行《ゆ》くだ、辰さん。……長塚の工事は城を築《つ》くような騒ぎだぞ。」「まだ通れないのか、そうかなあ。」店の女房も立って出た。「来月半ばまで掛《かか》るんだとよう。」「いや、難有《ありがと》う。さあ引返しだ。……いやしくも温泉場において、お客を預る自動車屋ともあるものが、道路の交通、是非善悪を知らんというのは、まことにもって不心得。」……と、少々芝居がかりになる時、記者は、その店で煙草《たばこ》を買った。
砂を挙げて南条に引返し、狩野川を横切った。古奈《こな》、長岡――長岡を出た山路には、遅桜《おそざくら》の牡丹咲《ぼたんざき》が薄
次へ
全9ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング