紫に咲いていた。長瀬を通って、三津の浜へ出たのである。
 富士が浮いた。……よく、言う事で――佐渡ヶ島には、ぐるりと周囲に欄干《まわり》があるか、と聞いて、……その島人に叱られた話がある。が、巌山《いわやま》の巉崕《ざんがい》を切って通した、栄螺《さざえ》の角《つの》に似たぎざぎざの麓《ふもと》の径《こみち》と、浪打際との間に、築繞《つきめぐ》らした石の柵《しがらみ》は、土手というよりもただ低い欄干に過ぎない。
「お宅の庭の流《ながれ》にかかった、橋廊下の欄干より低いくらいで、……すぐ、富士山の裾《すそ》を引いた波なんですな。よく風で打《ぶ》つけませんね。」
「大丈夫でございますよ。後方《あと》が長浜、あれが弁天島。――自動車は後眺望《あとながめ》がよく利きませんな、むこうに山が一ツ浮いていましょう。淡島です。あの島々と、上の鷲頭山《わしずやま》に包まれて、この海岸は、これから先、小海《こうみ》、重寺《しげでら》、口野などとなりますと、御覧の通り不穏な駿河湾が、山の根を奥へ奥へと深く入込《いりこ》んでおりますから、風波の恐怖《おそれ》といってはほとんどありません――そのかわり、山の麓の隅の隅が、山扁の嵎《ぐう》といった僻地《へきち》で……以前は、里からではようやく木樵《きこり》が通いますくらい、まるで人跡絶えたといった交通の不便な処でございましてな、地図をちょっと御覧なすっても分りますが、絶所、悪路の記号という、あのパチパチッとした線香花火が、つい頭の上の山々を飛び廻っているのですから。……手前、幼少の頃など、学校を怠《ずる》けて、船で淡島へ渡って、鳥居前、あの頂辺《てっぺん》で弁当を食べるなぞはお茶の子だったものですが、さて、この三津、重寺、口野一帯と来ますと、行軍の扮装《いでたち》でもむずかしい冒険だとしたものでしてな。――沖からこの辺の浦を一目に眺めますと、弁天島に尾を曳《ひ》いて、二里三里に余る大竜が一条《ひとすじ》、白浪の鱗《うろこ》、青い巌《いわ》の膚《はだ》を横《よこた》えたように見える、鷲頭山を冠《かむり》にして、多比の、就中《なかんずく》入窪《いりくぼ》んだあたりは、腕を張って竜が、爪に珠を掴《つか》んだ形だと言います。まったく見えますのでな。」
「乗ってるんですね! その上にいま……何だか足が擽《くすぐ》ったいようですね。」
 記者はシイツに座をずらした。
「いえ、決して、その驚かし申すのではありません。それですから、弁天島の端なり、その……淡島の峯から、こうこの巌山を視《なが》めますと、本で見ました、仙境、魔界といった工合《ぐあい》で……どんなか、拍子で、この崖《がけ》に袖《そで》の長い女でも居ようものなら、竜宮から買ものに顕《あら》われたかと思ったもので。――前途《さき》の獅子浜、江の浦までは、大分前に通じましたが、口野からこちら……」
 自動車は、既に海に張出した石の欄干を、幾処《いくところ》か、折曲り折曲りして通っていた。
「三津を長岡へ通じましたのは、ほんの近年のことで、それでも十二三年になりましょうか。――可笑《おかし》な話がございますよ。」
 主人は、パッパッと二つばかり、巻莨《まきたばこ》を深く吸って、
「……この石の桟道が、はじめて掛《かか》りました。……まず、開通式といった日に、ここの村長――唯今《ただいま》でも存命で居ります――年を取ったのが、大勢と、村口に客の歓迎に出ておりました。県知事の一行が、真先《まっさき》に乗込んで見えた……あなた、その馬車――」
 自動車の警笛に、繰返して、
「馬車が、真正面に、この桟道一杯になって大《おおき》く目に入ったと思召せ。村長の爺様《じいさま》が、突然|七八歳《ななやッつ》の小児《こども》のような奇声を上げて、(やあれ、見やれ、鼠《ねずみ》が車を曳《ひ》いて来た。)――とんとお話さ、話のようでございましてな。」

「やあ、しばらく!」
 記者が、思わず声を掛けたのはこの時であった――

 肩も胸も寄せながら、
「浪打際の山の麓《ふもと》を、向うから寄る馬車を見て――鼠が車を曳いて来た――成程、しかし、それは事実ですか。」
 記者が何ゆえか意気込んだのを、主人は事もなげに軽く受けた。
「ははは、一つばなし。……ですが事実にも何にも――手前も隣郡のお附合、……これで徽章《きしょう》などを附けて立会いました。爺様の慌てたのを、現にそこに居て、存じております。が、別に不思議はありません。申したほどの嶮道《けんどう》で、駕籠《かご》は無理にもどうでしょうかな――その時七十に近い村長が、生れてから、いまだかつて馬というものの村へ入ったのを見たことがなかったのでございますよ。」
「馬を見て鼠……何だか故事がありそうで変ですが――はあ、そうすると、同時に、鼠が馬に
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