かた》の挿絵でね、編中の見物の中に月村の似顔の娘が立っている。」
「素晴しいね。早速捜そう。」
「見るんなら内にあるよ。その随筆だがね、足が土についていない。お高く中洲の中二階、いや三階あたりに。――政党出の府会議員――一雪の親だよ――その令嬢が、自分一人。女は生れさえすりゃ誰でも処女だ、純潔だのに、一人で純潔がって廓の売色を、汚《けが》れた、頽《ただ》れた、浅ましい、とその上に、余計な事を、あわれがって、慈善家がって、異《おつ》う済まして、ツンと気取った。」
「おおおお念入りだ。」
「そいつが癪《しゃく》に障ったから。――折から、焼芋(訂正)真珠を、食過ぎたせいか、私が脚気《かっけ》になってね。」
「色気がないなあ。」
「祖母《としより》に小豆を煮て貰って、三度、三度。」
「止《よ》せよ、……今、酒を追加する……小豆は意気を銷沈《しょうちん》せしめる。」
「意気銷沈より脚気|衝心《しょうしん》が可恐《こわ》かったんだ。――そこで、その小豆を喰いながら、私《わたい》らが、売女なら、どうしよってんだい、小姐《ちいねえ》さん、内々の紐が、ぶら下ったり、爪の掃除をしない方が、余程《よっぽど》汚れた、頽れた、浅ましい。……塩みがきの私らを大きにお世話だ、お茶でもあがれ、とべっかっこをして見せた。」
「そうだろう、べっかっこでなくっちゃ筋は通らない。まともに弁じて、汚れた売女を憎んだのじゃない、あわれんだに……無理はないから。」
「勿論、つけた題が『べっかっこ。』さ――」
「見たいな、糸七……本名か。」
「まさか――署名は――江戸町河岸の、紫。おなじ雑誌の翌月の雑録さ。令嬢は随。……野郎は雑。――編輯部の取扱いが違うんだ。」
「辛うじて一坂越したよ、お互に、静かに、静かに。」
弦光は一息ふッ、日のあたる窓下の机の埃《ほこり》を吹き、吹いた後を絹切で掃《はら》った。
二十八
「それでも、上杉先生の、詞成堂――台町の山の屋敷の庭続き崖下にある破《やれ》借家……矢野も二三度遊びに行ったね、あの塾の、小部屋小部屋に割居して、世間ものの活字にはまだ一度も文選されない、雑誌の半面、新聞の五行でも、そいつを狙って、鷹の目、梟《ふくろう》の爪で、待機中の友達のね、墨色の薄いのと、字の拙《まず》いのばかり、先生にまだしも叱正を得て、色の恋のと、少しばかり甘たれかかると、たちまち朱筆の一棒を啖《くら》うだけで、気の吐きどころのない、嵎《ぐう》を負う虎、壁裏の蝙蝠《こうもり》、穴籠《あなごもり》の熊か、中には瓜子《うりこ》という可憐なのも、気ばかり手負の荒猪《あらじし》だろう。
見す見す一雪女史に先《せん》を越されて、畜生め、でいる処へ、私のその『べっかっこ』だ、行《や》った! 行った! 痛快! などと喝采だから、内々得意でいたっけが――一日《あるひ》、久しく御不沙汰で、台町へ機嫌伺いに出た処が、三和土《たたき》に、見馴れた二足の下駄が揃えてある。先生お出掛けらしい。玄関には下の塾から交代の当番で、弁持十二が居るのさ。日曜だったし……すぐの座敷で、先生は箪笥《たんす》の前で着換えの最中、博多の帯をきりりと緊《しま》った処なんだ。令夫人は藤色の手柄の高尚《こうとう》な円髷《まるまげ》で袴を持って支膝《つきひざ》という処へ、敷居越にこの面《つら》が、ヌッと出た、と思いたまえ。」
「その顔だね。」
「この面《つら》だ。――今朝なぞは特に拙いよ。「糸。」縮んだよ、先生の声が激しい。「お前、中洲のお京の悪口を書いたそうだな。」いきなりだろう、へどもどした。「は、いえ、別に。」「何、何を……悪気はない。悪気がなくって、悪口《あっこう》を、何だ、洒落《しゃれ》だ。黙んな、黙んな。洒落は一廉《ひとかど》の人間のする事、云う事だ。そのつらで洒落なんぞ、第一読者に対して無礼だよ。べっかっこが聞いて呆れる。そのべっかっこという面を俺の前へ出して見ろ。うわさに聞けば、友子づれで、吉原の河岸をせせって。格子へ飛びつくというから、だぼ沙魚《はぜ》のようになりやがった。――弁持……」十二のくすくす笑っているのを呼びかけて、「溝《どぶ》をせせって、格子へ飛びつくのは、だぼ沙魚じゃない……お前はよく、くだらない事を知っている、何だっけな。」弁持が鹿爪らしく、「は、飛沙魚《とびはぜ》です、は。」「飛沙魚だ、贅沢《ぜいたく》だ。もぐり沙魚の孑孑《ぼうふら》だ。――先方《さき》は女だ、娘だよ。可哀そうに、(口惜《くやし》いか、)と俺が聞いたら、(恥かしい、)と云って、ほろりとしたんだ、袖で顔を隠したよ。孑孑め、女だって友だちだ、頼みある夥間《なかま》じゃないか。黒髪を腰へ捌《さば》いた、緋縅《ひおどし》の若い女が、敵の城へ一番乗で塀際へ着いた処を、孑孑が這上《はいあが》って、乳の下を擽《くすぐ》って、同じ溝《どぶ》の中へ引込むんだ。」と……」
「分った、もう可《い》い、もう可い。」
と弦光は膝も浮きそうに、火鉢の向うで、肩をわななかせて、手を振った。
「雪のごとき、玉のごとき、乳の下を……串戯《じょうだん》にしろ、話にしろ、ものの譬喩《たとえ》にしろ、聞いちゃおられん。私には、今日《こんにち》、今朝《こんちょう》よりの私には――ははははは。」
寂しい笑いで、
「話はおかしいが、大心配な事が出来た。糸|的《こう》の先生、上杉さんは、その様子じゃ大分一雪女史が贔屓《ひいき》らしい。あの容色《きりょう》で、しんなりと肩で嬌態《あま》えて、机の傍《そば》よ。先生が二階の時なぞは、令夫人やや穏《おだやか》ならずというんじゃないかな。」
「串戯《じょうだん》じゃない、片田舎の面疱《にきび》だらけの心得違《こころえちがい》の教員なぞじゃあるまいし、女の弟子を。失礼だ。」
「失礼、結構、失礼で安心した。しかし、一言でそうむきになって、腰のものを振廻すなよ。だから振られるんだ、遊女《おいらん》持てのしない小道具だ。淀屋《よどや》か何か知らないが、黒の合羽張《かっぱばり》の両提《ふたつさげ》の煙草入《たばこいれ》、火皿までついてるが、何じゃ、塾じゃ揃いかい。」
「先生に貰ったんだ。弁持と二人さ、あとは巻莨《まきたばこ》だからね。」
「何しろ真田《さなだ》の郎党が秘《かく》し持った張抜の短銃《たんづつ》と来て、物騒だ。」
「こんなものを物騒がって、一雪を細君に……しっかりおしよ。月村はね、駿河台へ通って、依田学海翁に学んでいるんだ。」
と居直った。
二十九
「学海翁に。」
弦光は※[#「目+登」、第3水準1−88−91]目《とうもく》一番した。
「まさか剣術じゃあるまいな。それじゃ、僧正坊の術譲りと……そうか、言わずとも白氏文集。さもありなん、これぞ淑女のたしなむ処よ。」
「違う違う、稗史《はいし》だそうだ。」
「まさか、金瓶梅《きんぺいばい》……」
「紅楼夢《こうろうむ》かも知れないよ。」
「何だ、紅楼夢だ。清《しん》代第一の艶書、翁が得意だと聞いてはいるが、待った、待った。」
と上目づかいに、酒の呼吸《いき》を、ふっと吐いて、
「学海|説一雪紅楼夢《いっせつにこうろうむをとく》――待った、待った、第一の艶書を、あの娘《こ》に説かれては穏かでない。」
「教ゆ。授く。」
「……教ゆ。授く。気になる、気になる。」
「施す。」
「……施す、妙だ。いや、待った。待った。」
と掌《てのひら》で押えて留めるとともに、今度は、ぐっと深く目を瞑《つむ》って、
「学海施一雪紅楼夢――や不可《いけね》え。あの髯《ひげ》が白い頸脚《えりあし》へ触るようだ。女教員渚の方は閑話休題として、前刻《さっき》入って行った氷月の小座敷に天狗《てんぐ》の面でも掛《かか》っていやしないか、悪く捻《ひね》って払子《ほっす》なぞが。大変だ、胸がどきどきして来たぞ。」
弦光はわざとらしく胸をわななかせたと思うと、その胸を反《そ》らし、畳後《たたみうしろ》へ両の手をどさんと支《つ》いた。
「安心するがいい。誰が紅楼夢だときめたよ、一人で慌てているんじゃないか。一雪の習ってるのは水滸伝《すいこでん》だとさ、白文でね。」
「何、水滸伝。はてな、妙齢の姿色、忽然《こつねん》として剣侠《けんきょう》下地だ、うっかりしちゃいられない。」
と面《おもて》を正しく、口元を緊《し》めて坐り直し、
「寝ているうちに、匕首《ひしゅ》が飛んで首を攫《さら》うんだ、恐るべし……どころでない、魂魄《こんぱく》をひょいと掴《つか》んで、血の道の薬に持って行《ゆ》く。それも、もう他事《ひとごと》ではない、既に今朝の雪の朝茶の子に、肝まで抜かれて、ぐったりとしているんだ。聞けば聞得で、なお有難い。その様子じゃ――調ったとして婚礼の時は、薙刀《なぎなた》の先払い、新夫人は錦《にしき》の帯に守刀というんだね。夢にでも見たいよ、そんなのを。……
……といううちにも、糸|的《こう》、糸的《きみ》はひとりで目の覚めた顔をして澄ましているが、内で話した、外で逢ったという気振《けぶり》も見せない癖に、よく、そんな、……お京さんいい名だなあ、その娘《こ》の駿河台の研学の科目なぞを知っているね。あいつ、高慢だことの、ツンとしているのと、口でけなして何とかじゃないのかい。刺違えるならここで頼む。お互に怪我はしても、生命《いのち》に別条のない決闘なら、立処《たちどころ》にしようと云うんだ。俺はもう目が据《すわ》っている、真剣だよ。」
「対手《あいて》にならないが、次第《わけ》は話そう。――それ、弁持の甘き、月府の酸《す》きさ、誰某《たれそれ》と……久須利苦生の苦きに至るまで、目下、素人堅気輩には用なしだ。誰が売女《くろうと》に好かれるか、それは知らないけれどもだよ。――塾の中に一人、自ら、新派の伊井|蓉峰《ようほう》に「似てるです。」と云って、頤《あご》を撫でる色白な鼻の突出た男がいる。映山先生が洩《も》れ聞いてね、渾名《あだな》して、曰く――荷高似内《にたかにない》――何だか勘平と伴内を捏合《こねあ》わせたようだけれど、おもしろかろう。ところがこれだけが素人ばりの、大の、しんし。」
「大のしんし、いい許《とこ》の息子、金《きん》ありかい。」
「お互に懐中は寂しいね、一杯おつぎよ、満々と。しんしと聞いていい許の息子かは慌て過ぎる、大晦日《おおみそか》に財布を落したようだ。簇《しんし》だよ、張物に使う。……押を強く張る事経師屋以上でね。着想に、文章に、共鳴するとか何とか唱えて、この男ばかりが、ちょいちょい、中洲の月村へ出向くのさ。隅田《おおかわ》に向いた中二階で、蒔絵《まきえ》の小机の前を白魚《しらお》船がすぐ通る、欄干に凭《もた》れて、二人で月を視《み》た、などと云う、これが、駿河台へ行く一雪の日取まで知っているんだ。
黙《だんま》りでは相済まないと思って、「先生、私《わたくし》も、京子とともに無点本の水滸伝。」上杉先生が、「その隙《ひま》に、すいとんか、おでんを売れ。」「ははっ。」とこそは荷高似内、口をへの字に頤《あご》の下まで結んで鼻を一すすり、無念の思入で畳をすごすごと退《さが》る処は、旧派の花道の引込《ひっこ》みさ。」
「三枚目だな、我がお京さんを誰だと思うよ、取るに足らず。すると、まず、どこにも敵の心配はなしか。」
「……ところがある、あるんだ! 一人ある。」
弦光は猫板に握拳《にぎりこぶし》を、むずと出して、
「驚破《すわ》、驚破、その短銃《たんづつ》という煙草入を意気込んで持直した、いざとなると、やっぱり、辻町が敵なのか。」
「噴出さしちゃ不可《いけな》いぜ。私は最初《はな》から、気にも留めていなかった、まったくだ。いまこう真剣となると、黙っちゃいられない。対手《あいて》がある、美芸青雲派の、矢野《きみ》も知ってる名高い絵工《えかき》だ。」
三十
「――野土青麟《のづちせいりん》だよ。」
「あ、野土青麟か。」
「うむ、野土青麟だ。およそ世の中に可厭《いや》な奴《やつ》。」
「当代無類の気障《きざ》だ。」
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