う》懐石で、そこに、月並に、懇意なものの会がある。客が立込んだ時ここから選抜《えりぬ》きで助《す》けに来た、その一人である。
「どこかへいらっしゃる、ちょっと紅茶でも。」
面喰《めんくら》った慌《あわただ》しい中にも、忽然として、いつぞのむかし吉原の横町の、ずるずる引摺《ひきず》った青い裳《すそ》と、紅《あか》い扱帯《しごき》と、脂臭《やにくさ》い吸いつけ煙草を憶起《おもいおこ》すと、憶起す要はないのに、独りで恥しくなって、横を向いた。
「お可厭《いや》。」
「飛んでもない。」
「あら、ご挨拶。」
「飛んでもない。可厭なものかね。」
「お世辞のいいこと、熱燗《あつかん》も存じております。どうぞ――さあいらっしゃい。」
二十五
「人が見ては厭《いや》なんでしょう。お馴《な》れなさらない場所ですから。――あいにく三組ばかり宴会があって、多勢お見えになっていますから。……ああと……こっちが可いわ。」
拙者生れてより、今この年配《とし》で、人見知りはしないというのに、さらさら三方をカーテンで囲って、
「覗《のぞ》いちゃ不可《いけ》ません。」
何事だろうと、布目を覗く若い娘《こ》をたしなめて、内の障子より清純《きれい》だというのに、卓子掛《てえぶるかけ》の上へ真新しいのをまた一枚敷いて、その上を撓《しな》った指で一のし伸して、
「お紅茶?」
「いや、酒です、燗を熱く。」
「分っていますわ。」
「それから、勿論食べます。」
「お無駄をなさらないでも。」
「食べますとも、空腹です。そこで、お任せ、という処だけれど、鳥を。」
「蒸焼にしましょう、よく、火を通して。」
それまで御存じか、感謝を表して、一礼すると、もう居なくなる。
すっと入交《いれかわ》ったのが、瞳《め》の大きい、色の白い、年の若い、あれは何と云うのか、引緊《ひきしま》ったスカートで、肩が膨《ふわ》りと胴が細って、腰の肉置《ししおき》、しかも、その豊《ゆたか》なのがりんりんとしている。
「私も築地で……先日は。」
乳のふくらみを卓子《テエブル》に近く寄せて朗かに莞爾《にっこり》した。その装《よそおい》は四辺《あたり》を払って、泰西の物語に聞く、少年の騎士《ナイト》の爽《さわやか》に鎧《よろ》ったようだ。高靴の踵《かかと》の尖《とが》りを見ると、そのままポンと蹴《け》て、馬に騎《の》って、いきなり窓の外を、棟を飛んで、避雷針の上へ出そうに見える。
カーネーション、フリージヤの陰へ、ひしゃげた煙管《きせる》を出して点《つ》けようとしていたが、火燧《マッチ》をパッとさし寄せられると、かかる騎士に対して、脂下《やにさが》る次第には行《ゆ》かない。雁首《がんくび》を俯向《うつむ》けにして、内端《うちわ》に吸いつけて、
「有難う。」
と、まず落着こうとして、ふと、さあ落着かれぬ。
「はてな、や、忘れた。」
「え。」
「下足札。」
吃驚《びつくり》したように顔を見たが、
「そこに穿《は》いていらっしゃるじゃないの。」
実は外套を預けた時、札を貰わなかったのを、うっかりと下足札。ああ、面目次第もない。
騎士《ナイト》が悟って、おかしがって、笑う事笑う事、上身をほとんど旋廻して、鎧《よろい》の腹筋《はらすじ》を捩《よ》る処へ、以前のが、銚子を持参。で、入れかわるように駆出した。
「お帽子も杖《ステッキ》も、私が預ったじゃありませんか。安心してめしあがれ。あの方、今日は会計係、がちゃがちゃん、ごとンなの。……お酌をしますわ。」
やがて少々、とろりとなって、「さてそこへ立っていちゃ、ああ成程――風紀上、尤《もっとも》です……と、従って杯は。」
「さあ。(あたりを忍び目、カーテンばかり。)ちょっと一杯《ひとつ》ぐらい……お盃洗がなくて不可《いけ》ませんわね。」
「いや、特に感謝します、結構です。」
「あの、番町さん。私あの辺を知っていますわ。――学院の出ですもの。」
「ほう、すると英学者だ、そのお酌では恐縮です、が超恐縮で、光栄です。」
焼を念入に注意したが、もう出来たろうと、そこで運出《はこびだ》した一枚は、胸を引いて吃驚するほどな大皿に、添えものが堆《うずたか》く、鳥の片股《かたもも》、譬喩《たとえ》はさもしいが、それ、支配人が指を三本の焼芋を一束《ひとつか》ねにしたのに、ズキリと脚がついた処は、大江山の精進日の尾頭ほどある、ピカピカと小刀《ナイフ》、肉叉《フォーク》、これが見事に光るので、呆れて見ていると、あがりにくくば、取分けて、で、折返して小さめの、皿に、小形小刀の、肉叉がまたきらりと光る。
「ご念の入った事で……光栄です、ありがたい。」
「……お気にめして……おいしいこと。……まあ、嬉しい。それはね、手で持って、めしあがって、結構よ。」
「構いませんか、そいつは可《い》い、光栄です。」
仰《おおせ》に従うと、口のまわりが……
「はい、お手拭。」
二十六
お会計はあちらで、がちゃがちゃがちゃんの方なんですが……ここで……分っていますからと、鉛筆を軽く紙片に走らせた。
この会計だが、この分では、物価|騰昇《とうしょう》寒さの砌《みぎり》、堅炭《かたずみ》三俵が処と観念の臍《ほぞ》を固めたのに、
「おうう、こんな事で。……光栄です。」
「お給仕の分もついておりますから、ご心配なく。」
「いよいよ光栄です。」
と思わず口へ出た。床屋の分を倍額に、少し内へ引込んだのである。ここにおいて、番町さんの、泉、はじめて悠然として、下足を出口へ運ぶと、クローク(預所《あずかりしょ》)とかで、青衿が、外套を受取って、着せてくれて、帽子、杖《ステッキ》、またどうぞ、というのが、それ覚えてか、いつのこと……。後朝《きぬぎぬ》に、冷い拳固を背中へくらったのとは質《たち》が違う。
噫《ああ》、噫《あ》、世も許し、人も許し、何よりも自分も許して、今時も河岸をぞめいているのであったら、ここでぷッつりと数珠を切る処だ!……思えば、むかし、夥間《なかま》の飲友達の、遊び呆《ほう》けて、多日《しばらく》寄附《よりつ》かなかった本郷の叔母さんの許《もと》を訪ねたのがあった。お柏で寝る夜具より三倍ふっくらした坐蒲団《すわりぶとん》。濃いお茶が入って、お前さんの好きな藤村の焼ぎんとんだよ、おあがり、今では宗旨が違うかい。連雀《れんじゃく》の藪蕎麦が近いから、あの佳味《おいし》いので一銚子、と言われて涙を流した。親身の情……これが無銭《ただ》である。さても、どれほどの好男《いいおとこ》に生れ交《かわ》って、どれほどの金子《かね》を使ったら、遊んでこれだけ好遇《もて》るだろう。――しかるにもかかわらず、迷いは、その叔母さんに俥賃を強請《ゆす》って北廓《なか》へ飛んだ。耽溺《たんでき》、痴乱、迷妄《めいもう》の余り、夢とも現《うつつ》ともなく、「おれの葬礼《とむらい》はいつ出る。」と云って、無理心中かと、遊女《おいらん》を驚かし、二階中を騒がせた男がある。
これにつけ、またそれよ、壱岐殿坂で鼠の印《いん》を結んでより、雪の中を傘なしで、池の端まで、などと云うにつけても、天保銭を車に積んで切通しを飛んだ、思案入道殿の方が柄が大きい。……その意気や、仙台、紀文を凌駕《りょうが》するものである。
と、大理石の建物にはあるまじき、ひょろひょろとした楽書《らくがき》の形になって彳《たたず》む処に、お濠《ほり》の方から、円タクが、するすると流して来て、運転手台から、仰向《あおむ》けに指を三本出した。
「これだ。」
外套の袖を浮せて膝をたたいた。番町は、何のために、この床屋へ来たんだ。あまりそこらに焼芋の匂《におい》がするから、気をかえようと髪を洗いに来たのである。そうだ、焼芋の事を、ここにちなんで(真珠)としよう。
ものは称呼《となえ》も大事である。辻町糸七が、その時もし、真珠、と云って策を立てたら、弦光も即諾して、こま切《ぎれ》同然な竹の皮包は持たなかったに違いない。雪に真珠を食に充《あ》て、真珠をもって手を暖むとせんか、含玉鳳炭《がんぎょくほうたん》の奢侈《しゃし》、蓋《けだ》し開元天宝の豪華である。
即時、その三本に二貫たして、円タクで帰ったが、さて、思うに大分道草――(これも真珠としよう)――真珠を食った。
茅町の弦光の借屋の膳の上には、芋がらの汁と、葡萄豆ぽっちり、牛鍋には糸菎蒻ばかりが、火だけは盛《さかん》だから炎天の蚯蚓《みみず》のようだ、焦げて残っている、と云った処で、真珠を食ったあとだから、気が驕《おご》って、そんなものには、構っておられん。
本文を取急ごう。
その主意たるや、要するに矢野弦光が、その日、今朝、真《しん》もって、月村一雪、お京さんの雪の姿に惚れたのである。
一升徳利の転がったを枕にして、投足の片膝組みの仰向けで、酒の酔を陰に沈めて、天井を睨んでいたのが、むっくり、がばと起きると、どたりと凭掛《よりかか》ったまま、窓下の机をハタと打った。崖下の雪解の音は余所《よそ》よりも。……
いま、障子外の雨落の雫《しずく》がこの響きで刎《は》ねそうであった。
「糸|的《こう》。」
「ええ、驚いた。」
この方は、袖よじれに横倒れで、鉄張りの煙管を持った手を投出したまま、吸殻を忘れたらしい、畳に焼焦――最も紳士の恥ずべきこと――を拵《こしら》えながら、うとうとしていた。
「呼んだぐらいで驚いてくれちゃ困る。よ、糸|的《こう》、いい名だなあ、従兄弟《いとこ》に聞えて、親身のようだ。そのつもりで聞いてくれよ。ああ私は実は酔わん、酔えなかったんだよ。生れて三十年にして、いま目が覚めた。――ついてはだ。」
二十七
「――賛成だ、至極いいよ。私たち風来とは違って、矢野には学士の肩書がある。――御縁談は、と来ると、悪く老成《おやじ》じみるが仕方がない……として、わけなく絡《まとま》るだろうと思うがね、実はこのお取次は、私じゃ不可《まず》いよ。」
「そう、そう、そう来るだろうと思ったんだ。が、こうなれば刺違えても今更糸|的《こう》に譲って、指を銜《くわ》えて、引込《ひっこ》みはしない。」
と、わざとらしいまで、膝の上で拳《こぶし》を握ると、糸七は気《け》もない顔で、
「何を刺違えるんだ、間違えているんだろう。」
「だってそうじゃないか、いつか雑誌に写真が出ていたそうだが、そんなものはほとんど眼中になかった。今朝の雪は不意打さ。俥で帰ると、追分で一生の道が南北へ分れるのを、ほんとうに一呼吸という処で、不思議な縁で……どうも言う事が甘ったるいが、どうもどうも、腹の底まで汁粉に化けた。
――氷月の雪の枝折戸《しおりど》を、片手ざしの渋蛇目傘《しぶじゃのめ》で、衝《つ》いて入るように褄《つま》を上げた雨衣《あまぐ》の裾の板じめだか、鹿子絞りだか、あの緋色がよ、またただ美しさじゃない、清さ、と云ったら。……ここをいうのだ、茶屋の女房の浅黄縮緬のちらちらなぞは、突っくるみものの寄切《よせぎれ》だよ、……目も覚め、心《むね》に沁《し》みようじゃないか。
……同時に、時々の出入りとまでしばしばでなくても、同門の友輩《ともだち》で知合ってる糸|的《こう》が、少くとも、岡惚れを。」
「その事かい、何だ。」
と笑いもカラカラと五徳に響いて、煙管を払《はた》いた。
「対手《あいて》は素人だ、憚《はばか》りながら。」
「昨夜《ゆうべ》振られてもかい。」
「勿論。」
「直言を感謝す。」
と俯向《うつむ》いて、袖口をのばすように膝に手を長く置き、
「人|壮《さか》んなる時は、娘に勝ち、人衰うる時は女房が欲しい。……その意気だ。が、そうすると、話に乗ってくれるのに、また何が不都合だろう。」
「月村と性《しょう》が合わないんだ。先方《さき》は言うまでもなかろうが、私も虫が好かないんだ。前《ぜん》にね、月村が随筆を書いた事がある。燈籠見に誘われて、はじめて廓《くるわ》を覗《のぞ》いたというんだがね、雑誌の編輯でも、女というと優待するよ。――年方《とし
前へ
次へ
全16ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング