って酒は呑める。
二人とも冷酒《ひや》で呷《あお》った。
やがて、小形の長火鉢で、燗《かん》もつき、鍋も掛《かか》ったのである。
「あれはね、いいかい、這般《しゃはん》の瑣事《さじ》はだ、雪折笹にむら雀という処を仕方でやったばかりなんだ。――除《わり》の二の段、方程式のほんの初歩さ。人の見ている前の所作なんぞ。――望む処は、ひけ過ぎの情夫《まぶ》の三角術、三蒲団の微分積分を見せたかった……といううちにも、何しろ昨夜《ゆうべ》は出来が悪いのさ。本来なら今朝の雪では、遊女《おんな》も化粧を朝直しと来て、青柳か湯豆府とあろう処を、大戸を潜《くぐ》って、迎《むかえ》も待たず、……それ、女中が来ると、祝儀が危い……。一目散に茶屋まで仲之町を切って駆けこんだろう。お同伴《つれ》は、と申すと、外套なし。」
「そいつは打殺《ぶちころ》したのを知ってる癖に。」
「萌《きざ》した悪心の割前の軍用金、分っているよ、分っている……いるだけに、五つ紋の雪びたしは一層あわれだ、しかも借りものだと言ったっけかな。」
「春着に辛うじて算段した、苦生《にがせい》の一張羅さ。」
「苦生?……」
「知ってるじゃないか、月府玄蝉、弁持十二。」
「好《い》い、好い。」
「並んだ中にいつも陰気で、じめじめして病人のようだからといって、上杉先生が、おなじく渾名《あだな》して――久須利《くすり》、苦生《くせい》。」
「ああ、そう、久須利か。」
「くせえというようで悪いから、皆《みんな》で、苦生《にがせい》、苦生だよ。」
「さてまたさぞ苦《にが》る事だろう、ほうしょは折目|摺《ず》れが激しいなあ。ああ、おやおや、五つ紋の泡が浮いて、黒の流れに藍《あい》が兀《は》げて出た処は、まるで、藍瓶《あいがめ》の雪解だぜ。」
「奇絶、奇絶。――妙とお言いよ。」
「妙でないよ、また三馬か。」
「いい燗だ。そろそろ、トルストイ、ドストイフスキーが煮えて来た。」
「やけを言うなというに。そのから元気を見るにつけても、年下の息子を悩ませ、且つその友達を苦らせる、(一張羅だと聞けばかなしも。)我ながら情《なさけ》ない寂しい声だな。――懺悔《ざんげ》をするがね。茶屋で、「お傘を。」と言ったろう。――「お傘を」――家来どもが居並んだ処だと、この言《ことば》は殿様に通ずるんだ、それ、麻裃《あさがみしも》か、黒羽二重《くろはぶたえ》お袴《はかま》で、すっと翳《さ》す、姿は好いね。処をだよ。……呼べば軒下まで俥《くるま》の自由につく処を、「お俥。」となぜいわない。「お傘。」と来ては、茶屋めが、お互の懐中《ふところ》を見透かした、俥賃なし、と睨《にら》んだり、と思ったから、そこは意地だよ、見得もありか、土手まで雪見だ、と仲之町で袖を払った。」
「私は、すぼめた。」
「ははは、借りものだっけな、皮肉をいうなよ。息子はおとなしく内輪が好い。がつらつら思うに、茶屋の帳場は婆さんか、痘痕《あばた》の亭主に限ります。もっともそれじゃ、繁昌はしまいがね。早いから女中はまだ鼾《いびき》で居る。名代の女房の色っぽいのが、長火鉢の帳場奥から、寝乱れながら、艶々とした円髷《まるまげ》で、脛《はぎ》も白やかに起きてよ、達手巻《だてまき》ばかり、引掛《ひっか》けた羽織の裏にも起居《たちい》の膝にも、浅黄縮緬《あさぎちりめん》がちらちらしているんだ。」……
二十三
つれづれ草の作者に音が似ているから、法師とも人が呼ぶ、弦光法師は、盃《さかずき》を置き息をついて、
「しかも件《くだん》の艶なのが、あまつさえ大概番傘の処を、その浅黄をからめた白い手で、蛇目傘《じゃのめ》と来た。祝儀なしに借りられますか。且つまたこれを返す時の入費が可恐《おそろ》しい。ここしばらくあてなしなんだからね。」
「そこで、雪の落人《おちゅうど》となったんだね。私は見得も外聞も要らない。なぜ、この降るのに傘を借りないだろうと、途中では怨んだけれど、外套の頭巾をはずして被《かぶ》せてくれたのには感謝した、烏帽子《えぼし》をつけたようで景気が直った。」
「白く群がる朝返りの中で、土手を下りた処だったな。その頭巾の紐をしめながらどこで覚えたか――一段と烏帽子が似合いて候。――と器用な息子だ。しかも節なしはありがたかった。やがて静の前に逢わせたいよ。」
「静といえば。」
「乗出すなよ。こいつ、昨夜《ゆうべ》の遊女《おいらん》か。」
「そんなものは名も知らない。てんで顔を見せないんだから。」
「自棄《やけ》をいうなよ、そこが息子の辛抱どころだ。その遊女《おんな》に、馴染《なじみ》をつけて、このぬし辻町様(おん箸入)に、象牙が入って、蝶足の膳につかなくっちゃ。……もっともこの箸、万客に通ずる事は、口紅と同じだがね、ははは。」
「おって教授に預ろうよ。そんな事より、私のいうのは、昨夜《ゆうべ》それ引前《ひけまえ》を茶屋へのたり込んだ時、籠洋燈《かごらんぷ》の傍《わき》で手紙を書いていた、巻紙に筆を持添えて……」
「写実、写実。」
「目の凜《りん》とした、一の字眉の、瓜実顔《うりざねがお》の、裳《すそ》を引いたなり薄い片膝立てで黒縮緬の羽織を着ていた、芸妓島田《げいこしまだ》の。」
「うむ、それだ。それは婀娜《あだ》なり……それに似て、これは素研清楚《こうしょうせいそ》なり、というのを不忍の池で。……」
と、半ば口で消して、
「さあ、お酌だ。重ねたり。」
「あれは、内芸者というんだろう。ために傘を遠慮した茶屋の女房なぞとは、較べものにならなかったよ。」
「よくない、よくない量見だ。」
と、法師は大きく手を振って、
「原稿料じゃ当分のうち間に合いません。稿料|不如《しかず》傘二本か。一本だと寺を退《ひ》く坊主になるし、三本目には下り松か、遣切《やりき》れない。」
と握拳《にぎりこぶし》で、猫板ドンとやって、
「糸ちゃん! お互にちっと植上げをする工夫はないかい。」
と、喟然《きぜん》として歎じて、こんどは、ぐたりとその板へ肘《ひじ》をつく。
「へい、へい、遅《おそな》わりましてござります。」
爪の黒ずんだ婆さんの、皺頸《しわくび》へ垢手拭《あかてぬぐい》を巻いたのが、乾《から》びた葡萄豆《ぶどうまめ》を、小皿にして、兀《は》げた汁椀を二つ添えて、盆を、ぬい、と突出した。片手に、旦那様|穿換《はきか》えの古足袋を握っている。
「ああ、これだ。」と、喟然として歎じて、こんどは、畳へ手をついた。
この傭《やとい》にさえ、弦光法師は配慮した。……俥賃には足りなくても、安肉四半斤……二十匁以上、三十匁以内だけの料はある。竹の皮包を土産らしく提げて帰れば、廓《さと》から空腹《すきばら》だ、とは思うまい。――内証だが、ここで糸七は実は焼芋を主張した。粮《かて》と温石《おんじゃく》と凍餓共に救う、万全の策だったのである、けれども、いやしくも文学者たるべきものの、紅玉《ルビー》、緑宝玉《エメラルド》、宝玉を秘め置くべき胸から、黄色に焦げた香《におい》を放って、手を懐中《ふところ》に暖めたとあっては、蕎麦屋《そばや》の、もり二杯の小婢の、ぼろ前垂《まえだれ》の下に手首を突込むのと軌を一にする、と云って斥《しりぞ》けた。良策の用いられざるや、古今敗亡のそれこそ、軌を一にする処である。
が、途中まず無事に三橋まで引上げた。池の端となって見たがいい、時を得顔の梅柳が、行ったり来たり緋縮緬に、ゆうぜんに、白いものをちらちらと、人を悩す朝である。はたそれ、二階の欄干《てすり》、小窓などから、下界を覗《のぞ》いて――野郎めが、「ああ降ったる雪かな、あの二人のもの、簑《みの》を着れば景色になるのに。」――婦《おんな》めが、「なぜまた蜆《しじみ》を売らないだろう。」と置炬燵《おきごたつ》で、白魚鍋《しらおなべ》でも突《つつ》かれてみろ、畜生! 吹雪に倒るればといって、黒塀の描割《かきわり》の下が通れるものか。――そこで、どんどんから忍川の柵内へ、池のまわり、雪の原へ迷込んだ次第であったが。……
二十四
「ありがたい、この、汁レルから湯気が立つ。」
と、味噌椀の蓋を落して、かぶりついた糸七が、
「何だ、中味は芋※[#「くさかんむり/哽のつくり」、71−10]殻《いもがら》か、下手な飜訳みたいだね。」
「そういうなよ、漂母の餐《さん》だよ。婆やの里から来たんだよ。」
「それだから焼芋を主張したのに、ほぐして入れると直ぐに実《み》になる。」
「仲之町の芸者の噂のあとへ、それだけは、その、焼芋、焼芋だけはあやまるよ。」
と、弦光が頭《つむり》を下げた。
同感である。――糸七のおなじ話でも、紅玉《ルビー》、緑宝玉《エメラルド》だと取次|栄《ばえ》がするが、何分焼芋はあやまる。安っぽいばかりか、稚気が過ぎよう。近頃は作者|夥間《なかま》も、ひとりぎめに偉くなって、割前の宴会《のみかい》の座敷でなく、我が家の大広間で、脇息《きょうそく》と名づくる殿様道具の几《おしまずき》に倚《よ》って、近う……などと、若い人たちを頤《あご》で麾《さしまね》く剽軽者《ひょうきんもの》さえあると聞く。仄《ほのか》に聞くにつけても、それらの面々の面目に係ると悪い。むかし、八里半、僭称《せんしょう》して十三里、一名、書生の羊羹、ともいった、ポテト……どうも脇息向の饌《せん》でない。
ついこの間の事――一《ある》大書店の支配人が見えた。関東名代の、強弓《つよゆみ》の達者で、しかも苦労人だと聞いたが違いない。……話の中に、田舎から十四で上京した時は、鍛冶町辺の金物屋へ小僧で子守に使われた。泥濘《ぬかるみ》で、小銅五厘を拾った事がある。小銅五厘|也《なり》、交番へ届けると、このお捌《さば》きが面白い、「若《おはん》、金鍔《きんつば》を食うが可《よ》かッ。」勇んで飛込んだ菓子屋が、立派過ぎた。「余所《よそ》へ行きな、金鍔一つは売られない。」という。そこで焼芋。
と、活機《きっかけ》に作者が、
「三つ。」
声と共に、※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《あうん》の呼吸で、支配人が指を三本。……こうなると焼芋にも禅がある。
が、何しろ、煮豆だの、芋※[#「くさかんむり/哽のつくり」、72−15]殻だのと相並んで、婆やが持出した膳もさめるし、新聞の座がさめる。ものが清新でないのである。
不精髯《ぶしょうひげ》も大分のびた。一つ髪でも洗って来ようと、最近人に教えられ、いくらか馴染になった、有楽町辺の大石造館十三階、地階の床屋へ行くと、お帽子お外套というも極《きま》りの悪い代《しろ》ものが釦《ぼたん》で棚へ入って、「お目金、」と四度半が手近な手函《てばこ》へ据《すわ》る、歯科のほかでは知らなかった、椅子がぜんまいでギギイと巻上る……といった勢《いきおい》。しゃぼんの泡は、糸七が吉原返りに緒をしめた雪の烏帽子ほどに被《かぶ》さる。冷い香水がざっと流れる。どこか場末の床店《とこみせ》が、指の尖《さき》で、密《そっ》とクリームを扱《こ》いて掌《て》で広げて息で伸ばして、ちょんぼりと髯剃あとへ塗る手際などとは格別の沙汰で、しかもその場末より高くない。
お職人が念のために、分け目を熟《じっ》と瞻《み》ると、奴《やっこ》、いや、少年の助手が、肩から足の上まで刷毛《はけ》を掛ける。「お麁末様《そまつさま》。」「お世話でした。」と好《い》い気持になって、扉《ドア》を出ると、大理石の床続きの隣、パール(真珠)と云うレストランに青衿菫衣《せいきんきんい》の好女子ひとりあり、緑扉《りょくひ》に倚《よ》りて佇《たたず》めり。
「番町さん。」
「…………」
「泉さん。」
驚いて縮めた近目の皺《しわ》を、莞爾《にっこり》……でもって、鼻の下まで伸ばさせて、
「床屋へお入んなったのを……どうもそうらしいと思ったもんですから、お帰り時分を待っていたの、寄ってらっしゃいよ。」
「は、いや、その。」
ああ、そうか、思い出した。この真珠《パール》の本店が築地の割烹《かっぽ
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