りの板額《はんがく》ですね。」
渚が傘を取直して、
「武器《えもの》は、薙刀《なぎなた》。」
「私は、懐剣。」
二人が、莞爾《にっこり》。
お京の方が先んじて、ギイと押すと、木戸が向うへ、一歩先陣、蹴出す緋鹿子、揺《ゆるぎ》の糸が、弱腰をしめて雪を開いた。
「おお、まあ、天晴《あっぱ》れ。」
「と、おっしゃって下すった処で、敵手《あいて》はお汁粉よ。」
「あなたは。」
「え、私は、塩餡《しおあん》。」
「ご尋常……てまえは、いなか。」
「あとで、鴨雑煮《かもぞうに》。」
「驕《おご》る平家ね、揚羽の蝶のように、まだ釣荵《つりしのぶ》がかかっていますわ。」
と閉った縁の廂《ひさし》を見つつ、急に渚が肩をよじた。
「ああ、冷い、柳の枝が背《うしろ》から。」
肩を払うと、顔へかかるのを、片手でまた掻《か》き遣って、頬をすぼめた。
「雫《しずく》もしないのに濡れたんですか、冷いこと。」
お京も立停《たちど》まって振向いた。
「髪の毛ですわ……あら、私ンじゃない。」
しごいて、引いて、幾重にも巻取るようにした指を、離すと、すっと解けて頬を離れる。成程、渚のではない。その渚が――女だ、髪にはどこまでも目が繊細《こまか》い――雪を透かして、
「まあ、長い、黒い、美しい……どこまでも雪の上を。――月村さん、あなたのですよ。」
「いいえ、私。」
「良《い》い薫もするようです。どこかに梅かしら。それ、そうですとも。……頭巾をこぼれて、黒く一筋。」
「すこしは長いといいますけれど、薄いほどだって言われますもの。」
と頭巾を解き、颯《さっ》と顕《あら》われた島田の銀の丈長《たけなが》が指尖《ゆびさき》とともに揺れると、思わず傘を落した。
「気味の悪い。」
降りしきったのが小留《おやみ》をした、春の雪だから、それほどの気色でも、霽《は》れると迅《はや》い。西空の根津一帯、藍染《あいそめ》川の上あたり、一筋の藍を引いた。池の水はまだ暗い。
「気味の悪い?……気味の悪い事があるもんですか。手で引いてごらんなさいよ、ね、それ、触るでしょう、耳の下、ちっと横、手繰って。……そう、そう、すらすらと動きますわ、木戸の外の柳の上まで、まあ。」
「私どうしましょう。」
「結構じゃありませんか、あなたの指から、ああ鬢《びん》の中へ。」
と、相傘するまで、つと寄添う。
「私どうしましょう。」
と、乳のあたりへ袖を緊《し》めつつ、
「空から降って来やしないんでしょうか。」
「……空からでしょうよ、池からでしょうよ、天女からお授かりなすったのかも知れませんね、羨しいったらありませんわねえ。」
二十
「でも、私、小説が上手に出来ますように――笑わないで頂戴……そういって拝んだんですのに。」
「じょうだんじゃありません、かりにもそのくらいなものをお授かりになったんですのに。」
「半分切ってあげましょうか。」
「驚いた……誰方《どなた》にさ。」
「三浜さんに。」
「まあ。」
「だって、二人でお詣りに来たんですもの。」
「まあ、慾《よく》のおあんなさらない、可愛い、それだから私に抱かれようって……ほんとに抱きますよ。」
「あれ、人が居ます、ほほほ。」
「ええ、そう。――もうあそこまで行きました。」
――斉《ひと》しく見遣った。
富士|颪《おろし》というのであろう。西の空はわずかに晴間を見せた。が、池の端を内へ、柵に添って、まだ濛々《もうもう》と、雪烟《ゆきけぶり》する中を、スイと一人、スイと、もう一人。やや高いのと低いのと、海月《くらげ》が泳ぐような二人づれが、足はただようのに、向ううつむけに沈んで行《ゆ》く。……
脊の高い方は、それでも外套《がいとう》一着で、すっぽりと中折帽を被《かぶ》っている。が、寸の短い方は、黒の羽織に袴なし、蓑《みの》もなしで、見っともない、その上|紋着《もんつき》。やがて渚に聞けば、しかも五つ紋で。――これは外套の頭巾ばかりを木菟《みみずく》に被って、藻抜けたか、辷落《すべりお》ちたか、その魂魄《こんぱく》のようなものを、片手にふらふらと提げている。渚に聞けば、竹の皮包だ――そうであった。
「――あれ、辻町さんよ、ちょいと。」
「辻……町」
「糸七さんですってば。――つい、取紛れて、いきなり噂をしようって処、おくれちまいましたんですがね、いま、さっき、現にいま……」
「今……」
「懐剣、といって、花々しく、あなたがその木戸をお開けなすった時ですよ。立停《たちどま》ってしばらく見ていましたんですよ、二人とも。頭巾を被っておいでだし、横吹きに吹掛けていましたから、お気がつかなかったんです。もっともね、すぐその前、あすこで――私はお約束の大時計より、大変な後《おく》れ方ですから、俥《くるま》をおりると、早廻りに、すぐ池の端へ出て、揚出しわきの、あの、どんどんの橋を渡って、正面に傘を突翳《つきさ》して来たんでしょう。ぶつかりそうに、後縋《うしろすが》りに、あの二人に。
おや……帽子はすっぽりでも、顔は分りましたから、ちょっと挨拶はしましたけれど、御堂《みどう》の方へ心はせきます。それにお連れがまるで知らない人ですから、それなり黙ってさ。それだって、様子を見ただけでも、お久しぶりとも、第一、お早う、とも言えた義理じゃありませんわ。」
「どうしたんでしょう、こんな朝……雪見とでもいうのかしら。」
「あなたもあんまりお嬢さんね。――吉原の事を随筆になすったじゃありませんか。」
「いやです、きまりの悪いこと。……親類に連れられて、浅草から燈籠《とうろう》を見に行っただけなんです、玉菊の、あの燈籠のいわれは可哀《あわれ》ですわね。」
「その燈籠は美しく可哀だし、あの落武者……極《きま》っていますよ、吉原がえりの落武者は、みじめにあわれだこと。あの情《なさけ》ない様子ったら。おや、立停りましたよ、また――それ、こっちを見ています。挨拶――およしなさい、連《つれ》がありますから。どんなことを言出そうも知れません。糸七さん一人だって、あなたは仲が悪いんでしょう。おなじ雑誌に、その随筆の、あの人、悪口を記《か》いたじゃありませんか。」
「よくご存じですこと。」
簪《かんざし》を挿込むと、きりりと一文字にひそめた眉を、隠すように、傘を取って、熟《じっ》と、糸七とその連を視《み》た。
二十一
「しかし、しかしだね、(雪見と志した処が、まだしも)……何とかいったっけ、そうだ(……まだしも、ふ憫《びん》だ。)」
「あわれ、憫然というやつかい。」
「やっぱり、まだしも、ふ憫だ。――(いや、ますます降るわえ、奇絶々々。)と寒さにふるえながら牛骨が虚飾《みえ》をいうと(妙。)――と歯を喰切《くいしば》って、骨董《こっとう》が負惜しみに受ける処だ。
またあたかも三馬の向島の雪景色とおなじように、巻込まれた処へ、(骨董子、向うから来るのは確《たしか》に婦人だぜ。)と牛骨がいうと、(さん候この雪中を独歩するもの、俳気のある婦人か、さては越《こし》の国にありちゅう雪女なるべし、)傭《やとい》お針か、産婆だろう、とある処へ。……聞いたら怒るだろう、……バッタリ女教師の渚女史にぶつかったなぞは――(奇絶、奇絶。)妙……とお言いよ。」
「言えないよ。女作家の事はまた、べつとして……馬鹿々々しいよ。」
「三馬(式亭)が馬鹿々々しい、といって……女郎買に振られて帰ったこの朝だ。俥賃《くるまちん》なしの大雪に逢って、飜訳ものの、トルストイや、ツルゲネーフと附合ったり、ゲーテ、シルレルを談じたって、何の役に立つものか。そこへ行《ゆ》くと三馬だ。お馴染《なじみ》がいにいくらか、景気をつけてくれる。――「人間万事嘘誕計《にんげんばんじうそばっかり》」――骨董と牛骨が向島へ雪見の洒落で、ふられた雪を吹飛ばそう。」
「外聞の悪いことをいうなよ、雪は知らないが、ふられたのは俺じゃないぜ。」
と、大島の小袖に鉄無地の羽織で、角打の紐を縦に一扱《ひとしご》き扱いたのは、大学法科出の新学士。肩書の分限《ぶげん》に依って職を求むれば、速《すみやか》に玄関を構えて、新夫人にかしずかるべき処を、僻《へき》して作家を志し、名は早く聞えはするが、名実あい合《かな》わず、砕いて言えば収入《みいり》が少いから、かくの始末。藍染川と、忍川の、晴れて逢っても浮名の流れる、茅町《かやちょう》あたりの借屋に帰って、吉原がえりの外套を、今しがた脱いだところ。姓氏は矢野|弦光《げんこう》で、対手《あいて》とは四つ五つ長者である。
さし向って、三馬とトルストイをごっちゃに饒舌《しゃべ》る、飜訳者からすれば、不埒《ふらち》ともいうべき若いのは、想像でも知れた、辻町糸七。道づれなしに心中だけは仕兼ねない、身のまわり。ほうしょの黒の五つ紋(借りもの)を鴨居《かもい》の釘に剥取《はぎと》られて、大名縞とて、笑わせる、よれよれ銘仙《めいせん》の口綿一枚。素肌の寒さ。まだ雪の雫《しずく》の干《ひ》ない足袋は、ぬれ草鞋《わらじ》のように脱いだから、素足の冷たさ。実は、フランネルの手首までの襯衣《しゃつ》は着て出たが、洗濯をしないから、仇汚《あだよご》れて、且つその……言い憎いけれど、少し臭う。遊女《おいらん》に嫌われる、と昨宵《ゆうべ》行きがけに合乗俥《あいのりぐるま》の上で弦光がからかったのを、酔った勢い、幌《ほろ》の中で肌脱ぎに引きかなぐり、松源の池が横町にあるあたりで威勢よく、ただし、竜どころか、蚤《のみ》の刺青《ほりもの》もなしに放り出した。後悔をしても追附《おっつ》かない。で、弦光のひとり寝の、浴衣をかさねた木綿|広袖《どてら》に包《くる》まって、火鉢にしがみついて、肩をすくめているのであった。
が、幸《さいわい》に窓は明《あかる》い。閉め込んだ障子も、ほんのりと桃色に、畳も小庭の雪影に霞を敷いた。いま、忍川の日も紅《くれない》を解き、藍染川の雲も次第に青く流れていよう。不忍《しのばず》の池の風情が思われる。
上野の山も、広小路にも、人と車と、一斉《いっとき》に湧《わ》き動揺《どよめ》いて、都大路を八方へ溢《あふ》れる時、揚出しの鍋は百人の湯気を立て、隣近《となりぢか》な汁粉屋、その氷月の小座敷には、閨秀二人が、雪も消えて、衣紋《えもん》も、褄《つま》も、春の色にやや緩《と》けたであろう。
先刻《さっき》に氷月の白い柳の裏木戸と、遠見の馬場の柵際と、相望んでから、さて小半時|経《た》っている。
崖下ながら、ここの屋根に日は当るが、軒も廂《ひさし》もまだ雫をしないから、狭いのに寂然《しん》とした平屋の奥の六畳に、火鉢からやや蒸気《いきれ》が立って、炭の新しいのが頼もしい。小鍋立《こなべだて》というと洒落に見えるが、何、無精たらしい雇婆《やといばあ》さんの突掛《つッか》けの膳で、安ものの中皿に、葱《ねぎ》と菎蒻《こんにゃく》ばかりが、堆《うずたか》く、狩野派末法の山水を見せると、傍《かたわら》に竹の皮の突張《つッぱ》った、牛の並肉の朱《あか》く溢出《はみで》た処は、未来派尖鋭の動物を思わせる。
二十二
「仰せにゃ及ぶべき。そうよ、誰も矢野がふられたとは言やしない。今朝――先刻《さっき》のあの形は何だい。この人、帰したくない、とか云って遊女《おんな》が、その帯で引張《ひっぱ》るか、階子段《はしごだん》の下り口で、遁《に》げる、引く、くるくる廻って、ぐいと胸で抱合った機掛《きっかけ》に、頬辺《ほっぺた》を押着《おッつ》けて、大きな結綿《ゆいわた》の紫が垂れ掛《かか》っているじゃないか。その顔で二人で私を見て、ニヤニヤはどうしたんだ、こっちは一人だぜ。」
「そうずけずけとのたまうな、はははは談じたまうなよ、息子は何でも内輪がいい。……まずお酌だ。」
いかがな首尾だか、あのくらい雪にのめされながら、割合に元気なのは、帰宅早々婆さんを使いに、角店の四方《よも》から一升徳利を通帳《かよい》という不思議な通力で取寄せたからで。……これさえあれば、むかしも今も、狸だ
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