き》、鍋《なべ》で御酒《ごしゅ》――帳場ばかりか、立込むと出番をする。緋鹿子《ひがのこ》の襷掛《たすきが》けで、二の腕まで露呈《あらわ》に白い、いささかも黒人《くろうと》らしくなかったと聞いている。
また……ああ惜しいかな、前記の閨秀《けいしゅう》小説が出て世評一代を風靡《ふうび》した、その年の末。秋あわれに、残ンの葉の、胸の病《やまい》の紅《あか》い小枝に縋《すが》ったのが、凧《こがらし》に儚《はかな》く散った、一葉女史は、いつも小机に衣紋《えもん》正しく筆を取り、端然として文章を綴ったように、誰も知りまた想うのである。が、どういたして……
――やがてこのあとへ顔を出す――辻町糸七が、その想う盾の裏を見せられて面食《めんくら》った。糸七は、一雑誌の編輯にゆかりがあって、その用で、本郷丸山町、その路次が、(あしき隣もよしや世の中)と昂然《こうぜん》として女史が住んだ、あしき隣の岡場所で。……
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――おい、木村さん、信さん寄っておいでよ、お寄りといったら寄っても宜《い》いではないか、また素通りで二葉屋へ行く気だろう――
[#ここで字下げ終わり]
にはじまって、――ある雨の日のつれづれに表《おもて》を通る山高帽子の三十男、あれなりと取らずんば――と二十三の女にして、読書界に舌を巻かせた、あの、すなわちその、怪しからん……しかも梅雨時、陰惨としていた。低い格子戸を音訪《おとず》れると、見通しの狭い廊下で、本郷の高台の崖下だから薄暗い。部屋が両方にある、茶の間かと思う左の一層暗い中から、ひたひたと素足で、銀杏返《いちょうがえし》のほつれながら、きりりとした蒼白《あおじろ》い顔を見せた、が、少し前屈《まえかが》みになった両手で、黒繻子《くろじゅす》と何か腹合せの帯の端を、ぐい、と取って、腰を斜めに、しめかけのまま框《かまち》へ出た。さて、しゃんと緊《しま》ったところが、(引掛《ひっか》け、)また、(じれった結び)、腰の下緊《したじめ》へずれ下った、一名(まおとこ結び)というやつ、むすび方の称《とな》えを聞いただけでも、いまでは町内で棄て置くまい。差配が立処《たちどころ》に店《たな》だてを啖《く》わせよう。
――「失礼な、うまいなり、いいえね、余りくさくさするもんですから、湯呑で一杯……てったところ……黙ってて頂戴。」――
端正どころか、これだと、しごきで、頽然《たいぜん》としていた事になる。もっとも、おいらんの心中などを書く若造を対手《あいて》ゆえの、心易さの姐娘《あねご》の挙動《ふるまい》であったろうも知れぬ。
――「今日は珍らしいんです、いつも素見《ぞめき》大勢。山の方から下りていらっしゃる方、皆さん学者、詩人連でおいで遊ばすでしょう。英語はもとより、仏蘭西《フランス》をどうの、独乙《ドイツ》をこうの、伊太利《イタリー》語、……希臘《ギリシャ》拉甸《ラテン》……」――
と云って、にっこり笑ったそうである。
が、山から下りて来るという、この人々に対しては、(じれった結び)なぞ見せはしない、所帯ぎれのした昼夜帯も(お互に貧乏で、相向った糸七も足袋の裏が破れていた。)きちんと胸高なお太鼓に、一銭が紫粉《むらさきこ》で染返しの半襟も、りゅうと紗綾形《さやがた》見せたであろう、通力自在、姐娘の腕は立派である。
――それにつけても、お京さんは娘であった。雪の朝の不忍の天女|詣《もうで》は、可憐《いとし》く、可愛い。
十七
お京は下向《げこう》の、碧玳瑁《へきたいまい》、紅珊瑚《こうさんご》、粧門《しょうもん》の下《もと》で、ものを期したるごとくしばらく人待顔に彳《たたず》んだのは誰《た》がためだろう。――やがて頭巾《ずきん》を被《かぶ》った。またこれだけも一仕事で、口で啣《くわ》えても藤色|縮緬《ちりめん》を吹返すから、頤《おとがい》へ手繰って引結うのに、撓《しな》った片手は二の腕まで真白《まっしろ》に露呈《あらわ》で、あこがるる章魚《たこ》、太刀魚《たちのうお》、烏賊《いか》の類《たぐい》が吹雪の浪を泳ぎ寄りそうで、危っかしい趣さえ見えた。
――ついでに言おう。形容にもせよ、章魚、太刀魚はいかがだけれど、烏賊は事実居た……透かして見て広小路まで目は届かずとも、料理店、待合など、池の端《はた》あたりにはふらふらと泳いでいたろう――
その頃は外套《がいとう》の襟へ三角|形《なり》の羅紗《らしゃ》帽子を、こんな時に、いや、こんな時に限らない。すっぽりと被るのが、寒さを凌ぐより、半分は見得で、帽子の有無《ありなし》では約二割方、仕立上りの値が違う。ところで小座敷、勿論、晴れの席ではない、卓子台《ちゃぶだい》の前へ、右のその三角帽子、外套の態《なり》で着座して、左褄《ひだりづま》を折捌《おりさば》いたの、部屋着を開《はだ》けたのだのが、さしむかいで、盃洗が出るとなっては、そのままいきなり、泳いで宜《よろ》しい、それで寄鍋をつつくうちは、まだしも無鱗類の餌らしくて尋常だけれども、沸燗《にえがん》を、めらめらと燃やして玉子酒となる輩《ともがら》は、もう、妖怪に近かった。立てば槍《やり》烏賊、坐れば真《ま》烏賊、動く処は、あおり烏賊、と拍子にかかると、また似たものが外《ほか》にあった。
季節はそれるが、その形は、油蝉にも似たのである。
――月府玄蝉《げっぷげんせん》――上杉先生が、糸七同門の一人に戯《たわむれ》に名づけたので、いう心は月賦で拵《こしら》えた黒色外套の揶揄《やゆ》である。これが出来上った時、しかも玉虫色の皆絹裏《かいきうら》がサヤサヤと四辺《あたり》を払って、と、出立《いでた》った処は出来《でか》したが、懐中|空《むな》しゅうして行処《ゆくところ》がない。まさか、蕎麦屋《そばや》で、かけ一、御酒なしでも済まないので、苦心の結果、場末の浪花節を聞いたという。こんなのは月賦が必ず滞《たま》る。……洋服屋の宰取《さいとり》の、あのセルの前掛《まえかけ》で、頭の禿《は》げたのが、ぬかろうものか、春暖相催し申候や否や、結構なお外套、ほこり落しは今のうち、と引剥《ひきは》いで持って行《ゆ》くと、今度は蝉の方で、ジイジイ鳴噪《なきさわ》いでも黐棹《もちざお》の先へも掛けないで、けろりと返さぬのがおきまりであった。
――弁持《べんもち》十二――というのも居た。おなじ門葉《もんよう》の一人で、手弁で新聞社へ日勤する。月給十二円の洒落《しゃれ》、非ず真剣を、上杉先生が笑ったのである。
ここに――もう今頃は、仔細《しさい》あって、変な形でそこいらをのそついているだろう――辻町糸七の名は、そんな意味ではない。
上杉先生の台町とは、山……一つ二つあなたなる大塚辻町に自炊して、長屋が五十七番地、渠《かれ》自ら思いついた、辻町はまずいい、はじめは五十七、いそなの磯菜。
「ヘン笑かすぜ、」「にやけていやがる、」友達が熱笑冷罵する。そこで糸七としたのである。七夕の恋の意味もない。三味線《さみせん》の音色もない。
その糸七が、この大雪に、乗らない車坂あたりを段々に、どんな顔をしていよう。名を聞いただけでも空腹《すきばら》へキヤリと応える、雁鍋《がんなべ》の前あたりへ……もう来たろう。
お京の爪皮《つまかわ》が雪を噛《か》んで出た。まっすぐに清水《きよみず》下の道へは出ないで、横に池について、褄はするすると捌《さば》くが、足許の辿々《たどたど》しさ。
十八
寒い、めっきり寒い。……
氷月と云う汁粉屋の裏垣根に近づいた時、……秋は七草で待遇《もてな》したろう、枯尾花に白い風が立って、雪が一捲《ひとま》き頭巾を吹きなぐると、紋の名入の緋葉《もみじ》がちらちらと空に舞った。お京の姿は、傘もたわわに降り積り、浅黄で描いた手弱女《たおやめ》の朧夜《おぼろよ》深き風情である。
「あら、月村さん。」
紅入ゆうぜんの裳《すそ》も蹴開くばかり、包ましい腰の色気も投棄てに……風はその背後《うしろ》から煽《あお》っている……吹靡《ふきなび》く袖で抱込むように、前途《ゆくて》から飛着いた状《さま》なる女性《にょしょう》があった。
濃緑《こみどり》の襟巻に頬を深く、書生羽織で、花月巻の房々したのに、頭巾は着ない。雪の傘《からかさ》の烈《はげ》しく両手に揺るるとともに、唇で息を切って、
「済みません、済みませんでした、お約束の時間におくれッちまいまして。」
「まあ、よくねえ。」
と、此方《こなた》も息を吻《ほっ》としながら、
「これではどうせ――三浜《みはま》さん、来《い》らっしゃらないと思ったもんですから、参詣《おまいり》を先に済ませて、失礼でしたわ。」
「いいえ、いいえ。」
「何しろこの雪でしょう、それに私などと違って、あなたはお勤めがおありになりますから。」
「ところが、ですの。」
とまた一息して、
「私の方こそ、あなたと違って、歩行《ある》くのも、動くのも、雨風だって、毎日体操同然なんでございますものね。」
と云った。「教え子」と題した、境遇自叙の一篇が、もう世に出ていた。これも上杉先生の門下で。――思案入道殿の館《やかた》に近い処、富坂《とみざか》辺に家居《いえい》した、礫川《れきせん》小学校の訓導で、三浜|渚《なぎさ》女史である。年紀《とし》はお京より三つ四つ姉さんだし、勤務が勤務だし、世馴《よな》れて身の動作《こなし》も柔かく、内輪の裡《うち》にもおのずから世の中つい通り――ここは大衆としようか――大衆向の艶《つや》を含んで、胸も腰もふっくらしている。
「わけなし、疾《はや》くに支度をして、この日曜だというのに袴まで穿《は》きましたんです、風がありますからですが。この雪と来て、あなたは不断お弱いし……きっとお出掛けなさりはしないだろう、と一人で極《き》めて、その袴も除《の》けてさ、まあ。ご丁寧に、それで火鉢に噛《かじ》りついたんですけど……そうでもない、ほかの事とは違って、お参詣《まいり》をするのに、他所《よそ》の方が、こうだから、それだから、どうの、といっては勿体なし……一人ででも、と思いますと、さあ、あなたも同じ心でお出掛けになったかも分らない。――急に火鉢の火のつくように、飛上って、時間がおくれた、大変だ。お待合わせを約束の仲|町《ちょう》を出た、あの大時計が雪の塔、大吹雪の峠の下に、一人旅で消えそうに彳《た》っていらっしゃるのが目さきに隠現《ちらつ》くもんですから、一息に駆出すようにして来たんです。気ばかり急いで。」
と、顔をひたと合わせそうに、傘《からかさ》を横に傾けたので、耳にまで飛ぶ雪を、鬢《びん》を振って、払い、はらい、
「この煙とも霧とも靄《もや》とも分らない卍巴《まんじともえ》の中に、ただ一人、薄《うっす》りとあなたのお姿を見ました時は、いきなり胸で引包《ひっつつ》んで、抱いてあげたいと思いましたよ。」
「抱かれたい、おほほ。」
と口紅が小さく白く、雪に染まった。
「え?」
ただの世辞ではなかったが、おもいがけないお京の返事が胸を衝《つ》いたから、ちょっと呆れて、ちょっと退《しさ》って、
「まあ、月村さん」
「おほほ、三浜さん」
「お元気、お元気……」
十九
渚も元気を増したらしい。
「ですが、顔の色がお悪いわ、少し蒼ざめて。……何しろ、ここへ入って休みましょう――ええ、私のお詣りはそれから、お精進だから構いません、お汁粉ですもの。家がまた氷月ですね。気のきかない、こんな時は、ストーブ軒か、炬燵亭《こたつてい》とでもすれば可《よ》ござんすのに。」
その木戸口に、柳が一本《ひともと》、二人を蔽《おお》う被衣《かつぎ》のように。
「閉っていたって。」
と、少し脊伸びの及腰《およびごし》に、
「この枝折戸《しおりど》の掛金は外ずしてありましょう。表へだと、大廻りですものね。さあ、いらっしゃい。まこと開かなけりゃ四目垣ぐらい、破るか、乗越《のっこ》すかしちまいますわ。抱かれてやろうといって下すった、あなたのためなら。……飛んだ門破
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