鳥居が一つ、跨《また》を上げて飛んで来たように見えたのですけれど、変な事は――そこの旅宿《やどや》と向うの料理屋の中ほどの辻の処からだったんだそうでございましてね――灰色の雲の空から、すーっと、細いものが舞下って来て、顔から肩の処へ掛《かか》ったように思われたんでございますって。最初《はな》、蜘蛛の巣だろう……誰だってそう思いますわ。
 身体《からだ》をもがいて払うほどの事じゃなし――声を掛けて、内の前をお通りなさいました時は、もうお忘れなすったほどだったそうなんですが、芝居の前あたりで、それが咽喉《のど》へ触りました、むずむずと、ぐうと扱《しご》くように。」
「いやですねえ。」
「いやでございますことね。――久女八が土蜘蛛をやっている、能がかりで評判なあの糸が、破風《はふ》か、棟から抜出したんだろう。そんな事を、串戯《じょうだん》でなくお思いなすったそうです。
 芝居|好《ずき》な方で、酔っぱらった遊びがえりの真夜中に、あなた、やっぱり芝居ずきの俥夫《くるまや》と話がはずむと、壱岐殿坂の真中《まんなか》あたりで、俥夫《わかいしゅ》は吹消した提灯《かんばん》を、鼠に踏まえて、真鍮《しんちゅう》の煙管《きせる》を鉄扇で、ギックリやりますし、その方は蝦蟇口《がまぐち》を口に、忍術の一巻ですって、蹴込《けこみ》へ踞《しゃが》んで、頭までかくした赤毛布《あかげつと》を段々に、仁木弾正《にっきだんじよう》で糶上《せりあが》った処を、交番の巡査《おまわり》さんに怒鳴られたって人なんでございますもの。
 芝居のちっと先方《さき》へいらっしゃると、咽喉《のど》を、そのしめ加減が違って来て、呼吸《いき》にさわるほどですから、払ってもとれないのを、無理にむしり離して、からだを二つ三つ廻りながら、掻きはなすと、空へ消えたようだったそうでございますのに、また、キーと、まるで音でもしますように戻って来て、今度は、その中指へくるくると巻きついたんですが、巻きつくと一所に、きりきりきりきり引きしめて、きりきり、きりきり、その痛さといっては。……
 縫針のさきでさえ、身のうち響きますわ。ただ事でない。解くにも、引切《ひっき》るにも、目に見えるか、見えないほどだし、そこらは暗し、何よりか知った家《とこ》の洋燈《らんぷ》の灯を――それでもって、ええ。……
 さあ、女の髪と分りました、漆のような、黒い、すなおな、柔かな、細々した、その長うございましたこと。……お嬢様。」
「いいえ、私のは。」
 ついした様で、鬢《びん》へ触った。一うち、という眉が凜《りん》として、顔の色が一層|白澄《しろず》んだ。が、怪しい黒髪に見くらべたらしい女房の素振を憎んだのでなく、妙な話が身に沁《し》みたものらしい。
 女房の言《ことば》を切って、「いいえ」と云ったのは、またそんな意味ではなかったのである。
「あれ、変な人が、変な人が……」
 変な人が、女房の正面《まおもて》へ、写真館の前へ出たのであった。

       十一

「こむ僧でしょうか、あれ、役者が舞台の扮装《なり》のままで写真を撮って来たのでしょうか。」
 と伸上るので、お嬢さんも連れられて目を遣《や》った。
 この場末の、冬日の中へ、きらびやかとも言ッつべく顕《あら》われたから、怪しいまで人の目を驚かした。が、話の続きでも、学生を悩ました一筋の黒髪とはいささかも関係はない。勿論揃って男で、変な人で、三人である。
 並んだ、その真中《まんなか》のが一番脊が高い。だから偉大なる掌《て》の、親指と、小指を隠して、三本に箔《はく》を塗り、彩色したように見えるのが、横通りへは抜けないで、ずんずん空地の前を、このお伽堂へ押して来た。
 下駄と下駄の音も聞える。近づいたから、よく解る。三人とも揃いの黒|羽二重《はぶたえ》の羽織で、五つ紋の、その、紋の一つ一つ、円か、環の中へ、小鳥を一羽ずつ色絵に染めた誂《あつら》えで、着衣《きもの》も同じ紋である。が、地《じ》は上下《うえした》とも黒紬《くろつむぎ》で、質素と堅実を兼ねた好みに見えた。
 しかし、袴《はかま》は、精巧|平《ひら》か、博多か、りゅうとして、皆見事で、就中《なかんずく》その脊の高い、顔の長い、色は青黒いようだけれども、目鼻立の、上品向きにのっぺりと、且つしおらしいほど口の小形なのが、あまつさえ、長い指で、ちょっとその口元を圧《おさ》えているのは、特に緞子《どんす》の袴を着した。
 盛装した客である。まだお膳も並ばぬうち、譬喩《たとえ》にもしろ憚《はばか》るべきだが、密《そっ》と謂《い》おう。――繻子《しゅす》の袴の襞※[#「ころもへん+責」、第3水準1−91−87]《ひだ》とるよりも――とさえいうのである。いわんや……で、綾《あや》の見事さはなお目立つが、さながら紋緞子の野袴である。とはいえ、人品《ひとがら》にはよく似合った。
 この人が、塩瀬の服紗《ふくさ》に包んだ一管の横笛を袴腰に帯びていた。貸本屋の女房がのっけに、薦僧《こもそう》と間違えたのはこれらしい。……ばかりではない。
 一人、骨組の厳丈《がっちり》した、赤ら顔で、疎髯《まだらひげ》のあるのは、張肱《はりひじ》に竹の如意《にょい》を提《ひっさ》げ、一人、目の窪んだ、鼻の低い頤《あご》の尖《とが》ったのが、紐に通して、牙彫《げぼり》の白髑髏《しゃれこうべ》を胸から斜《ななめ》に取って、腰に附けた。
 その上、まだある。申合わせて三人とも、青と白と綯交《ないま》ぜの糸の、あたかも片襷《かただすき》のごときものを、紋附の胸へ顕著に帯《たい》した。
 いずれも若い、三十|許少《わずか》に前後。気を負い、色|熾《さかん》に、心を放つ、血気のその燃ゆるや、男くささは格別であろう。
 お嬢さんは、上気した。
 処へ、竹如意《ちくにょい》と、白髑髏である。
 お嬢さんはまた少し寒気がした。
 横笛だけは、お嬢さんを三人で包んで立った時、焦茶の中折帽を真俯向《うつむ》けに、爪皮《つまかわ》の掛《かか》った朴歯《ほおば》の日和下駄を、かたかたと鳴らしざまに、その紋緞子の袴の長い裾を白足袋で緩く刎《は》ねて、真中の位置をずれて、ツイと軒下を横に離れたが。
 弱い咳をすると、口元を蔽《おお》うた指が離れしなに、舌を赤く、唇をぺろりと舐《な》めた。
 貸本屋の女房は、耳朶《みみたぶ》まで真赤《まっか》になった。
 写真館の二階窓で、荵《しのぶ》の短冊とともに飜《ひるがえ》った舌はこれである。
 が、接吻と誤《あやま》ったのは、心得違いであろう。腰の横笛を見るがいい。たしなみの楽の故に歌口をしめすのが、つい癖になって出たのである。且つその不断の特異な好みは、歯を染めているので分る。女は気味が悪かろうが、そんなことは一向構わん、艶々として、と見た目に、舌まで黒い。

       十二

「何とかいったな、あの言種《いいぐさ》は。――宴会前で腹のすいた野原《のっぱら》では、見るからに唾《つば》を飲まざるを得ない。薄皮で、肉|充満《いっぱい》という白いのが、妾《めかけ》だろう、妾に違いない。あの、とろりと色気のある工合がよ。お伽堂、お伽堂か、お伽堂。」
 竹如意が却って一竹箆《ひとしっぺい》食《くら》いそうなことを言う。そのかわり、悟った道人のようなあッはッはッはッ。
「その、言種がよ、「ちとお慰みに何ぞごらん遊ばせ。」は悩ませるじゃないか。借問《しゃもん》す貸本屋に、あんな口上、というのがあるかい。」
「柄にあり、人により、類に応じて違うんだ。貸本屋だからと言って、股引《ももひき》の尻端折《しりはしょり》で、読本《よみほん》の包みを背負って、とことこと道を真直《まっす》ぐに歩行《ある》いて来て、曲尺形《かねじゃくがた》に門戸《もんかど》を入って、「あ、本屋でござい。」とばかりは限るまい。あいつ妾か。あの妾が、われわれの並んで店へ立ったのに対して、「あ、本屋とござい。」と言って見ろ、「知ってるよ。」といって喧嘩《けんか》になりか、嘘にもしろ。」とその髑髏《しゃれこうべ》を指で弾《はじ》く。
「いや、その喧嘩がしたかった。実は、取組合《とっくみあ》いたいくらいなものだった。「ちと、お慰みにごらん遊ばせ。」……おまけに、ぽッと紅《あか》くなった、怪しからん。」
「当る、当る、当るというに。如意をそう振廻わしちゃ不可《いか》んよ。」
 豆府屋の親仁《おやじ》が、売声をやめて、このきらびやかな一行に見惚《みと》れた体で、背後《あと》に廻ったり、横に出たり、ついて離れて歩行《ある》くのが、この時一度|後《うしろ》へ退《しざ》った。またこの親仁も妙である。青、黄に、朱さえ交った、麦藁《むぎわら》細工の朝鮮帽子、唐人笠か、尾の尖《とが》った高さ三尺ばかり、鯰《なまず》の尾に似て非なるものを頂いて。その癖、素銅《すあか》の矢立《やたて》、古草鞋《ふるわらじ》というのである。おしい事に、探偵ものだと、これが全篇を動かすほど働くであろう。が、今のチンドン屋の極めて幼稚なものに過ぎない。……しばらくあって、一つ「とうふイ、生揚《なまあげ》、雁《がん》もどき」……売声をあげて、すぐに引込《ひっこ》む筈《はず》である。
 従って一行三人には、目に留めさせるまでもなければ、念頭に置かせる要もない。
「あれが仮に翠帳《すいちょう》における言語にして見ろ。われわれが、もとの人間の形を備えて、ここを歩行《ある》いていられるわけのものじゃないよ。斬るか、斬られるか、真剣抜打の応酬なくんばあるべからざる処を、面壁九年、無言の行だ。――どうだい、御前《ごぜん》、この殿様。」
「お止《よ》しよ、その御前、殿様は。」
 と、横笛の紋緞子が、軽くその口を圧《おさ》えて、真中《まんなか》に居て二人を制した。
「あれだからな、仕方をしたり、目くばせしたり、ひたすら、自重謹厳を強要するものだから、止《や》むことを得ず、口を箝《かん》した。」
「無理はないよ、殿様は貸本屋を素見《ひやか》したんじゃない。――見合の気だ。」
 とまた髑髏を弾く。
「串戯《じょうだん》じゃありません。ほほほ。」
「ああ、心臓の波打つ呼吸《いき》だぜ、何しろ、今や、シャッターを切らむとする三人の姿勢を崩して、窓口へ飛出したんだ。写真屋も驚いたが、われわれも唖然とした。何しろ、奢《おご》るべし、今夜の会には非常なる寄附をしろ。俥《くるま》がそれなり駆抜けないで、今まで、あの店に居たのは奇縁だ。」
「しかし、我輩は与《くみ》しない。」
「何を。」
「寂しい、のみならず澄まし切ってる、冷然としたものだ。」
「お上品さ、そこが殿様の目のつけ処よ。」

       十三

「……何しろ、不思議な光景だった。かくして三人が、ほとんど無言だ。……」
「ほとんど処か全然無言で。……店頭《みせさき》をすとすと離れ際に、「帰途《かえり》に寄るよ。」はいささか珍だ。白い妾に対してだけに、河岸の張見世《はりみせ》を素見《すけん》の台辞《せりふ》だ。」
「人が聞きますよ、ほほほ、見っともない。」
 と、横笛が咳《しわぶき》する。この時、豆府屋の唐人笠が間近くその鼻を撞《つ》かんとしたからである。
「ところで、立向って赴く会場が河岸の富士見楼で、それ、よくこの頃新聞にかくではないか、紅裙《こうくん》さ。給仕の紅裙が飯田町だろう。炭屋、薪屋《まきや》、石炭揚場の間から蹴出しを飜して顕われたんでは、黒雲の中にひらめく風情さ。羅生門に髣髴《ほうふつ》だよ。……その竹如意はどうだい。」
「如意がどうした。」
 と竹如意を持直す。
「綱が切った鬼の片腕……待てよ、鬼にしては、可厭《いや》に蒼白《あおじろ》い。――そいつは何だ、講釈師がよく饒舌《しゃべ》る、天保水滸伝《てんぽうすいこでん》中、笹川方の鬼剣士、平手造酒猛虎《ひらてみきたけとら》が、小塚原《こづかっぱら》で切取って、袖口に隠して、千住《こつ》の小格子を素見《ひやか》した、内から握って引張《ひっぱ》ると、すぽんと抜ける、女郎を気絶さした腕に見える。」
「腰の髑髏が言わせますかね
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