に巻戻しながら、指を添え、表紙を開くと、薄、茅原、花野を照らす月ながら、さっと、むら雨に濡色の、二人が水の滴《た》りそうな、光氏《みつうじ》と、黄昏《たそがれ》と、玉なす桔梗《ききょう》、黒髪の女郎花《おみなえし》の、簾《みす》で抱合う、道行《みちゆき》姿の極彩色。
「永洗《えいせん》ですね、この口絵の綺麗だこと。」
「ええ、絵も評判でございます。……中坂の、そのお娘ごもおっしゃいました。その小説の『たそがれ』は、現代《いま》のおいらんなんだそうですけれど、作者だか、絵師《えかき》さんだかの工夫ですか、意匠《こころつもり》で、むかし風に誂《あつら》えたんでしょう、とおっしゃって、それに、雑誌にはいろいろの作が出ておりますけれど、一番はなへのっておりますから、そうやって一冊本の口絵のように……だそうなんでございますッて。」
「結綿《ゆいわた》の、御容子《ごようす》のいい。」
 口絵から目を放さず、
「その方、いろいろな事を、ようごぞんじ……羨しいこと。表紙を別につけて、こうなされば、単行――一冊ものもおんなじようで、作者だって、どんなにか嬉しいでしょうよ。」
 その方、という、この方、もいろいろな事を、ようご存じ。……で、その結綿のかな文字を、女房の手に返すと、これがために貸本屋へ立寄ったろう、借りて行く心づもりに、口絵を伏せて、表紙をきちんと、じっと見た。
「あら。」
 と瞳をうつくしく、
「ちょいと、辻町糸七作、『たそがれ』――お書きになったのは、これは、どちらの、あのこちらの御主人。」
「飛んだ、とんだ、いいえ、飛んでもない。」
 と何を狼狽《うろた》えたか、女房はまた顔を赤くした。同時に、要するに、黄色く、むくんだ、亭主の鼻に、額が打着《ぶつ》かったに相違ない。とにかく、中味が心中で、口絵の光氏とたそがれが目前《めさき》にある、ここへ亭主に出られては、しょげるより、悲《かなし》むより、周章《あわ》て狼狽《うろた》えずにいられまい。
「飛んでもない、あなた。」
 と、息も忙《せわ》しく、肩を揉《も》んで、
「宅などが、あなた、大それた。」
 そうだろう、題字は颯爽《さっそう》として、輝かしい。行と、かなと、珊瑚灑《さんごそそ》ぎ、碧樹《へきじゅ》梳《くしけず》って、触るものも自《おのず》から気を附けよう。厚紙の白さにまだ汚点《しみ》のない、筆の姿は、雪に珠琳《じゅりん》の装《よそおい》であった。
「あの、どうも、勿体なくて、つけつけ申しますのも、いかがですけれど、小石川台町にお住居《すまい》のございます、上杉様、とおっしゃいます。」
「ええ、映山先生。」
 お嬢さんの珊瑚を鏤《ちりば》めた蒔絵《まきえ》の櫛がうつむいた。

       八

「どういたしまして。お嬢様、お心易さを頂くなぞとは、失礼で、おもいもよりませんのでございますけれど。」
 この紙表紙の筆について、お嬢さんが、貸本屋として、先生と知己《ちかづき》のいわれを聞いたことはいうまでもなかろう。
「実は、あの、上杉先生の、多勢のお弟子さん方の。……あなたは、小説がおすきでいらっしゃいますのを、お見受け申しましたから……ご存じかも知れませんけれど、そのお一人の、糸七さんでございますが。」
「ええ。」
「実は――私ども、うまれが同じ国でございましてね、御懇意を願っておりますものですから。」
「ちっとも私……まあ、そうですか。」
「その御縁で、ついこの間、糸七さんと、もう一人おつれになって、神保町辺へ用達《ようたし》においでなさいましたお帰りがけ、ご散歩かたがた、「どうだい、新店は立行《たちゆ》くかい。」と最初《のっけ》から掛構《かけかま》いなくおっしゃって。――こちらは、それと聞きますと、お大名か、お殿様が御微行《おしのび》で、こんな破屋《あばらや》へ、と吃驚《びっくり》しましたのに、「何にも入《い》らない。南画の巌《いわ》のようなカステーラや、べんべらものの羊羹なんか切んなさるなよ。」とお笑いなすって、ちょうど宅が。」
 また眉を顰《ひそ》めたが、
「小工面《こぐめん》に貸本へ表紙をかぶせておりましたのをごらんなさいまして、――「辻町のやつ、まだ単行が出来ないんだ。一冊|纏《まとま》ったもののように、楽屋|中《うち》で祝ってやろう。筆を下さい。」――この硯箱《すずりばこ》を。」
「ちょいと、一度これを。」
 と、お嬢さんは、硯箱を押させて、仲よしの押絵の羽子板のように胸へ当てていた『たそがれ』を、きちんと据えた。
「……「ひどい墨だな、あやしい茶人だと、これを鳥の子に包むんだ。」とおっしゃりながら、すらすらおしたためになったんでございますが、あの、筆をおとり遊ばしながら、「婦《おんな》は遊女《おいらん》だ、というじゃないか。……(おん箸入《はしいれ》。)とかくようだ。中味は象牙《ぞうげ》じゃあるまい。馬の骨だろう。」……何ですか、さも、おかしそうに。――そうしますと、糸七さんは、その傍《そば》で、小さくなって。……」
 お嬢さんの唇の綻《ほころ》びた微笑《ほほえみ》に、つい笑って、
「何の事ですか、私などには解りませんの、お嬢様は。」
「存じません。」
「あれ御承知らしくていらしって……お意地の悪い、ほほほ。」
「いいえ、知りません。中坂とかの、その結綿の方ならお解りでしょうね。……それよりか、『たそがれ』の作者の糸七――まあ、私、さっきから、……此店《こちら》とお知合とはちっとも知らないもんだから、……悪かったわねえ。糸七さん、ともいいませんでした。」
「いいえ、あなた、お客様は、誰方《どなた》だって、作者の名を、さん附にはなさいません。格別、お好きな、中坂のその方だって、糸七、と呼びすてでございますの。ええ、そうでございますとも。この辺でごらんなさいまし。三崎座の女役者を、御贔負《ごひいき》は、皆呼びずてでございます。」
 言い得て女房、妙である。(おん箸入)の内容が馬の骨なら、言い得て特に妙である。が、当時梨園に擢出《ぬきんで》た、名優|久女八《くめはち》は別として、三崎座なみは情《なさけ》ない。場面を築地辺にとればまだしもであったと思う。けれども、三崎町が事実なのである。
「ほほほ、お呼びずての方が却ってお心易くって、――ああ、お茶を一つ。」
「おかみさん、ちょいと、あの、それより冷水《おひや》を。」
「冷水?」
「あの、ざぶざぶ、冷水で、この半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》を絞って下さいませんか。御無心ですが。私ね、実は、その町の曲角で、飛んだ気味の悪い事がありましてね。」

       九

「そこの旅宿《やどや》の角まで、飯田町の方から来ますとね、妾《わたし》、俥《くるま》だったんですけれど、幌《ほろ》が掛《かか》っていましたのに、何ですか、なまぬるい、ぬめりと粘った、濡れたものが、こっちの、この耳の下から頬へ触ったんです。」
 水紅色《ときいろ》の半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》が、今度は花弁《はなびら》のしぼむ状《さま》に白い指のさきで揺れた。
「あれ、と思って、手を当てても何にもないんです。」
「あの、此店《こちら》へおいでなさいました、今しがた……」
 女房は頬をすぼめ、眉を寄せて、
「……まあ。」
「慌てて俥をとめましてね、上も下も見ましたけれど、別に何にもないんです。でも、可厭《いや》らしく、変に臭《にお》うようで、気味が悪くって、気味が悪くって。無理にも、何でもお願いしてと思っても、旅宿《やどや》でしょう、料理屋ですもの、両方とも。……お店の看板が「かし本」と見えました時は、ほんとうに、地獄で……血の池で……蓮《はす》の花を見たようでしたわ。いきなり冷水《おひや》を、とも言いかねましたけれど、そのうちに、永洗の、名もいいんですのね、『たそがれ』の島田に、むら雨のかかる処だの、上杉先生の、結構なお墨の色を見ましたら、実は、いくらかすっきりして来ましたんです。」
 珊瑚碧樹の水茎は、清《すずし》く、その汚濁《おじょく》を洗ったのである。
「いつまでも、さっきのままですと、私はほんとうに、おいらんの心中ではないんですけど、死んでしまいたいほどでしたよ。」
 大袈裟《おおげさ》なのを笑いもしない女房は、その路連《みちづれ》、半町|此方《てまえ》ぐらいには同感であったらしい
「ええええお易い事。まあ、ごじょうだんをおっしゃって、そんなお人がらな半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]を。……唯今、お手拭《てぬぐい》。」
 茶の室《ま》へ入るうしろから、
「綿屑《わたくず》で結構よ。」
 手拭をさえ惜しんだのは、余程《よっぽど》身に沁《し》みた不気味さに違いない。
 女房は行《ゆ》きがけに、安手な京焼の赤湯呑を引攫《ひっさら》うと、ごぼごぼと、仰向《あおむ》くまで更《あらた》めて嗽《うがい》をしたが、俥で来たのなどは見た事もない、大事なお花客《とくい》である。たしない買水を惜気なく使った。――そうして半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]を畳みながら、行儀よく膝に両の手を重ねて待ったお嬢さんに、顔へ当てるように、膝を伸《のば》しざまに差出した。
「ほんとうに、あなた、蟆子《ぶよ》のたかりましたほどのあともございませんから、御安心遊ばせ。絞りかえて差上げましょう。――さようでございますか、フとしたお心持に、何か触ったのでございましょう。御気分は……」
「はい、お庇《かげ》で。」
「それにつけて、と申すのでもございませんけれど、そういえば、つい四五日前にも、同じ処で、おかしなことがあったんでございますの。ええ、本郷の大学へお通いなさいます学生さんで、時々おいで下さいます。その方ですが、あなた、今日のような好《い》いお日和ではありません、何ですか、しぐれて、曇って、寂しい暮方でございましたの。
 やあ、と云って、その学生さんが、あの辻の方から。――油を惜しむなよ、店が暗いじゃないか。今つける処なのよ、とお心易立てに、そんな口を利きましてね、釣洋燈《つりらんぷ》の傍《そば》に立っていますと、その時はお寄りなさらないで、さっさと水道橋の方へ通越していらっしゃいました。
 三崎座が刎《は》ねまして、両方へばらばら人通りがありました。それが途絶えましたちょうどあとで、お一人で、さっさと幟《のぼり》のかげへ見えなくおなんなすったんですが、燈《ひ》がつきました、まだ蕊《しん》の加減もしません処へ、変だ、変だ、取殺される、幽霊だ、ばけものだ、と帽子なんか、仰向けに、あなた……」

       十

「……燈をあかるくしてくれ、変だ。あ、痛い痛いと、左の手を握って、何ですか――印を結んだとかいいますように、中指を一本押立てていらっしゃるんです。……はじめは蜘蛛《くも》の巣かと思ったよ、とそうおいいなさるものですから、狂犬《やまいぬ》でなくて、お仕合せ、蜘蛛ぐらい、幽霊も化ものも、まあ、大袈裟なことを、とおかしいようでございましたが、燈でよく、私も一所に、その中指を、じっと見ますと、女の髪の毛が巻きついているんでございましてね。」
「髪の毛ですえ、女の。」
 お嬢さんは細い指を、白く揃えて、箱火鉢に寄せた。例の枯荵《かれしのぶ》の怪しい短冊の舌は、この時|朦朧《もうろう》として、滑稽《おどけ》が理に落ちて、寂しくなったし、鶏頭の赤さもやや陰翳《かげ》ったが、日はまだ冷くも寒くもない。娘の客は女房と親しさを増したのである。
「ええ、そうなんでございます。二人して、よく見ましたの、この火鉢の処で。」
 お嬢さんは手を引込《ひっこ》めた。枯野の霧の緋葉《もみじ》ほど、三崎街道の人の目をひいたろう。色ある半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]も、安んじて袖の振《ふり》へ納った。が、うっかりした。その頬を拭《ぬぐ》った濡手拭は、火鉢の縁に掛《かか》っている。
 女房はさまでは汚がらないで、そのままで、
「――学生さんの制服で駈戻《かけもど》って来なさいましたのは水道橋の方からでございましょう。お稲荷様の
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