を牛車《うしぐるま》でも通るように、かたんかたんと、三崎座の昼芝居の、つけを打つのが合間に聞え、囃《はやし》の音がシャラシャラと路地裏の大溝《おおどぶ》へ響く。……
 裏長屋のかみさんが、三河島の菜漬を目笊《めざる》で買いに出るにはまだ早い。そういえば裁縫《おはり》の師匠の内の小女《こおんな》が、たったいま一軒隣の芋屋から前垂《まえだれ》で盆を包んで、裏へ入ったきり、日和のおもてに人通りがほとんどない。
 真向うは空地だし、町中は原のなごりをそのまま、窪地のあちこちには、草生《くさはえ》がむらむらと、尾花は見えぬが、猫じゃらしが、小糠虫《こぬかむし》を、穂でじゃれて、逃水ならぬ日脚《ひあし》の流《ながれ》が暖く淀《よど》んでいる。
 例の写真館と隣合う、向う斜《ななめ》の小料理屋の小座敷の庭が、破れた生垣を透いて、うら枯れた朝顔の鉢が五つ六つ、中には転ったのもあって、葉がもう黒く、鶏頭ばかり根の土にまで日当りの色を染めた空を、スッスッと赤蜻蛉《あかとんぼ》が飛んでいる。軒前《のきさき》に、不精たらしい釣荵《つりしのぶ》がまだ掛《かか》って、露も玉も干乾《ひから》びて、蛙の干物のようなのが、化けて歌でも詠みはしないか、赤い短冊がついていて、しばしば雨風を喰《くら》ったと見え、摺切《すりき》れ加減に、小さくなったのが、フトこっち向に、舌を出した形に見える。……ふざけて、とぼけて、その癖何だか小憎らしい。
 立寄る客なく、通りも途絶えた所在なさに、何心なく、じっと見た若い女房が、遠く向うから、その舌で、頬を触るように思われたので、むずむずして、顔を振ると、短冊が軽く揺れる。頤《あご》で突きやると、向うへ動き、襟を引くと、ふわふわと襟へついて来る。……
「……まあ……」
 二三度やって見ると、どうも、顔の動くとおりに動く。
 頬のあたりがうそ痒《がゆ》い……女房は擽《くすぐった》くなったのである。
 袖で頬をこすって、
「いやね。」
 ツイと横を向きながら、おかしく、流盻《ながしめ》が密《そっ》と行《ゆ》くと、今度は、短冊の方から顎《あご》でしゃくる。顎ではない、舌である。細く長いその舌である。
 いかに、短冊としては、詩歌に俳句に、繍口錦心《しゅうこうきんしん》の節を持すべきが、かくて、品性を堕落し、威容を失墜したのである。
 が、じれったそうな女房は、上気した顔を向け直して、あれ性《しょう》の、少し乾いた唇でなぶるうち――どうせ亭主にうしろ向きに、今も髷《まげ》を賞《ほ》められた時に出した舌だ――すぼめ口に吸って、濡々と呂《くち》した。
 ――こういう時は、南京豆ほどの魔が跳《おど》るものと見える。――
 パッと消えるようであった、日の光に濃く白かった写真館の二階の硝子窓《がらすまど》を開けて、青黒い顔の長い男が、中折帽を被《かぶ》ったまま、戸外《おもて》へ口をあけて、ぺろりと唇を舐《な》めたのとほとんど同時であったから、窓と、店とで思わず舌の合った形になる。
 女房は真うつむけに突伏《つッぷ》した、と思うと、ついと立って、茶の間へ遁《に》げた。着崩れがしたと見え、褄《つま》が捻《よじ》れて足くびが白く出た。

       五

「ごめんなさい。」
 返事を、引込《ひっこ》めた舌の尖《さき》で丸めて、黙《だんま》りのまま、若い女房が、すぐ店へ出ると……文金の高島田、銀の平打《ひらうち》、高彫《たかぼり》の菊簪《きくかんざし》。十九ばかりの品のあるお嬢さんが、しっとり寂しいほど、着痩《きや》せのした、縞《しま》お召に、ゆうぜんの襲着《かさねぎ》して、藍地《あいじ》糸錦の丸帯。鶸《ひわ》の嘴《くち》がちょっと触っても微《かすか》な菫色《すみれいろ》の痣《あざ》になりそうな白玉椿の清らかに優しい片頬を、水紅色《ときいろ》の絹|半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》でおさえたが、且《かつ》は桔梗《ききょう》紫に雁金《かりがね》を銀で刺繍《ぬいとり》した半襟で、妙齢《としごろ》の髪の艶《つや》に月の影の冴えを見せ、うつむき加減の頤《あぎと》の雪。雪のすぐあとへは惜しいほど、黒塗の吾妻下駄《あずまげた》で、軒かげに斜《ななめ》に立った。
 実は、コトコトとその駒下駄の音を立てて店前《みせさき》へ近づくのに、細《ほっそ》り捌《さば》いた褄から、山茶花《さざんか》の模様のちらちらと咲くのが、早く茶の間口から若い女房の目には映ったのであった。

 作者が――謂《い》いたくないことだけれど、その……年暮《くれ》の稼ぎに、ここに働いている時も、昼すぎ三時頃――、ちょうど、小雨の晴れた薄靄《うすもや》に包まれて、向う邸《やしき》の紅《あか》い山茶花が覗《のぞ》かれる、銀杏《いちょう》の葉の真黄色《まっきいろ》なのが、ひらひらと散って来る、お嬢さんの肌についた、ゆうぜんさながらの風情も可懐《なつか》しい、として、文金だの、平打だの、見惚《みと》れたように呆然《ぽかん》として、現在の三崎町…あの辺町《あたり》の様子を、まるで忘れていたのでは、相済むまい。
 ――場所によると、震災後の、まだ焼原《やけのはら》同然で、この貸本屋の裏の溝が流れ込んだ筈《はず》の横川などは跡も見えない。古跡のつもりで、あらかじめ一度見て歩行《ある》いた。ひょろひょろものの作者ごときは、外套《がいとう》を着た蟻のようで、電車と自動車が大昆虫のごとく跳梁奔馳《ちょうりょうほんち》する。瓦礫《がれき》、烟塵《えんじん》、混濁の巷《ちまた》に面した、その中へ、小春の陽炎《かげろう》とともに、貸本屋の店頭《みせさき》へ、こうした娘姿を映出すのは――何とか区、何とか町、何とか様ア――と、大入の劇場から女の声の拡声器で、木戸口へ呼出すように楽には行《ゆ》かない。なかなかもって、アテナ洋墨《インキ》や、日用品の唐墨の、筆、ペンなどでは追っつきそうに思われぬ。彫るにも刻むにも、鋤《すき》と鍬《くわ》だ。
 さあ、持って来い、鋤と鍬だ。
 これだと、勢い汗|膏《あぶら》の力作とかいう事にもなって、外聞が好《い》い。第一、時節がら一般の気うけが好《よ》かろう。
 鋤と鍬だ、と痩腕で、たちまち息ぜわしく、つい汗になる処から――山はもう雪だというのに、この第一回には、素裸の思案入道殿をさえ煩わした。
 が、再び思うに、むやみと得物《えもの》を振廻しては、馴《な》れない事なり、耕耘《こううん》の武器で、文金に怪我をさせそうで危かしい。
 また飜《ひるがえ》って、お嬢さんの出のあたりは――何をいうのだ――かながきの筆で行《ゆ》く。
「あの……此店《こちら》に……」
 若い女房が顔を見ると、いま小刻みに、長襦袢《ながじゅばん》の色か、下着の褄か、はらはらと散りつつ急いで入った、息づかいが胸に動いて、頬の半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》が少し揺れて、
「辻町、糸七の――『たそがれ』――というのがおありになって。」
 と云った。
「おいで遊ばせ。」
 と若い女房、おくれ馳《ば》せの挨拶をゆっくりして、
「ございますの。……ですけれど、絡《まとま》りました一冊本ではありません……あの、雑誌の中に交って出ていますのでして。」
「ええ、そうですよ。」
 と水紅色の半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]がまたゆれる。

       六

「ちょいちょい、お借り下さる方がございまして、よく出ますから。……唯今《ただいま》見ますけれど。」
 女房は片膝立ちに腰を浮かしながら能書《のうがき》をいう。
「……私も読みたい読みたいと存じながら、商売もので、つい慾張《よくば》りまして、ほほほ、お貸し申します方が先へ立ちますけれど。……何ですか、お女郎の心中ものだとか申しますのね。」
「そうですって。……『たそがれ』……というのが、その娼妓《しょうぎ》――遊女《おいらん》の名だって事です。」
 と、凜《りん》とした眦《まなじり》の目もきっぱりと言った。簪の白菊も冷いばかり、清く澄んだ頬が白い。心中にも女郎にも驚いた容子《ようす》が見えぬ。もっともこのくらいな事を気にしては、清元も、長唄も、文句だって読めなかろうし、早い話が芝居の軒も潜《くぐ》れまい。が、うっかり小説の筋を洩《も》らして、面と向ったから、女房が却って瞼《まぶた》を染めた。
 棚から一冊抜取ると、坐り直して、売りものに花だろう、前垂に据えて、その縮緬《ちりめん》の縞《しま》でない、厚紙の表紙を撫《な》でた。
「どうぞ、お掛けなさいまして、まあ、どうぞ。」
 はなからその気であったらしい、お嬢さんは框《かまち》へ掛けるのを猶予《ためら》わなかった。帯の錦は堆《たか》い、が、膝もすんなりと、着流しの肩が細い。
「ちょうどいい処で、あの、ゆうべお客様から返ったばかりでございますの。それも書生さんや、職人衆からではございませんの。」
 娘客の白い指の、指環《ゆびわ》を捜すように目で追って、
「中坂下からいらっしゃいます、紫|鹿子《かのこ》のふっさりした、結綿《ゆいわた》のお娘ご、召した黄八丈なぞ、それがようお似合いなさいます。それで、お袴《はかま》で、すぐお茶の水の学生さんなんでございますって。」
「その方。……」
 女房の膝の方へは手も出さず、お嬢さんは、しとやかに、
「その作者が、贔屓《ひいき》?」
 と莞爾《にっこり》した。
 辻町糸七、よく聞けよ。
「は?……」
 貸本屋の客には今までほとんど例のない、ものの言葉に、一度聞返して、合点《のみこ》んで、
「別にそうと限ったわけではございません。何でもよくお読みになりますの。でも、その、ゆうべおいでなさいました時、「たそがれ。――いいのね。」とおっしゃいます。……晩方でございましょう。変に暗くて気味が悪し、心細し、といいますうちにも、立込みまして、忙《せわ》しくって不可《いけ》ませんと申しましたら、お笑いなさいましたんでございます。長屋世帯はすぐそれですから、ほほほ。小説の題の事だったのでございますもの。大好きな女の名でいらっしゃるんですって。……田舎源氏、とかにもありますそうです。その時、京の五条とか三条あたりとかの暮方の、草の垣根に、雪白な花の、あわれに咲いたお話をききましたら、そのいやな入相《いりあい》が、ほんのりと、夕顔ほどに明るく、白くなりましてございましてね。」
 女房は、ふと気がさしたか、町通りの向う角へ顔を向けた、短冊の舌は知らん顔で、鶏頭が笑っている。写真館の硝子窓は静《しずか》に白い日を吸って。……
「……古寺の事もうかがいました。清元にございますってね。……ところどころ、あの、ほんとうに身に沁《し》みますようですから、そのお娘ごにおねだりして、少しばかり、巻紙の端へ。――あ、そうそう、この本の中へ挟んで、――まあ、いい事をいたしました。大事に蔵《しま》って置こうと存じながら、つい、うっかりして、まあ、勿体ないこと。」
 と、軽く前髪へあてたのである。念のため『たそがれ』の作者に言おう。これは糸七を頂いたのでは決してない。……

       七

「拝見な。」
「は、どうぞ。」
 雑誌に被《かぶ》せた表紙の上へ、巻紙を添えて出す、かな交りの優しい書《て》で、
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――折しも月は、むら雲に、影うす暗きをさいわいと、傍《かたえ》に忍びてやりすごし、尚《なお》も人なき野中の細道、薄茅原《すすきかやはら》、押分け押分け、ここは何処《いずこ》と白妙《しろたえ》の、衣打つらん砧《きぬた》の声、幽《かすか》にきこえて、雁音《かりがね》も、遠く雲井に鳴交わし、風すこし打吹きたるに、月|皎々《こうこう》と照りながら、むら雨さっと降りいづれば――
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 水茎の墨の色が、はらはらとお嬢さんの睫毛《まつげ》を走った。一露瞼にうけたように、またたきして、
「すぐこのあとへ、しののめの鬼が出るんですのね、可恐《こわ》いんですこと……。」
 目白からは聞えまい。三崎座だろう、釣鐘がボーンと鳴る。
 柳亭種彦のその文章を、そっと包むよう
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