おしまいなさいますし、私、死にたくなりました。」
と、片袖で顔をかくすと、姿も、消入る風情である。
「それが、それがです、それにわけがあるんです。何しろ、あなたを見てからではありません、見ない前に飛出したんです、――今申訳をします。待って下さい。どうも、何しろ、周囲《まわり》が煩《うるさ》い。」
軸物《かけもの》も、何もない、がらん堂の一つ道具に、机わきの柱にかけた、真田が短銃《たんづつ》の両提《ふたつさげ》。
鉄の煙管《きせる》はいつも座右に、いまも持って、巻莨《まきたばこ》の空缶《あきかん》の粉煙草を捻《ひね》りながら、余りの事に、まだ喫《の》む隙《すき》を見出さなかった、その煙管を片手に急いで立って、机の前の肱掛窓《ひじかけまど》の障子を開けると、植木屋の竹垣つづきで、細い処を、葎《むぐら》くぐりに人は通う。
「――夜叉|的《こう》、夜叉|的《こう》。」
声の下に、鼻の上まで窓の外へ、二ツ目が出た。
「光邦様、何。」
ひやりと、また汗になりながら、
「媽々《かかあ》連を追払《おっぱら》ってくれ、消してくれよ、妖術、魔術で。」
黙って瞬《まばたき》でうなずいた目が消えると、たちまち井戸端へ飛んだと思う、総長屋の桝形形《ますがたなり》の空地へ水輪なりにキャキャと声が響いた。
「放れ馬だよ、そら前町を、放れ馬だよ、五匹だ。放れ馬だよッ。」
跫音《あしおと》が、ばたばたばた、そんなにも居たかと思う。表通の出入口へ、どっと潮のように馳《はし》り退《の》いて、居まわりがひっそりする、と、秋空が晴れて、部屋まで青い。
畳の埃も澄んだようで、炉の灰の急な白さ。背きがち、首《うな》だれがちに差向ったより炉の灰にうつくしい面影が立って、その淡《うす》い桔梗の無地の半襟、お納戸|縦縞《たてじま》の袷《あわせ》の薄色なのに、黒繻珍《くろしゅちん》に朱、藍《あい》、群青《ぐんじょう》、白群《びゃくぐん》で、光琳《こうりん》模様に錦葉《もみじ》を織った。中にも真紅に燃ゆる葉は、火よりも鮮明《あざやか》に、ちらちらと、揺れつつ灰に描かるる。
それを汚すようだから、雁首で吹溜めの吸殻を隅の方へ掻こうとすると、頑固な鉄が、脇明《わきあけ》の板じめ縮緬《ちりめん》、緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》に危く触ろうとするから、吃驚《びっくり》して引込《ひっこ》める時、引っかけて灰が立った。その立つ灰にも、留南木《とめぎ》の香が芬《ぷん》と薫る。
覚えず、恍惚《うっとり》する、鼻の尖《さき》へ、炎が立って、自分で摺《す》った燐寸《マッチ》にぎょっとした。が、しゃにむに一服まず吸って、はじめて、一息|吻《ほつ》とした。
「月村さん、あなたを見て、花嫁、いや、待って下さい。言うのも憚《はばか》りますが、その花嫁のわけなんです。――実は、今更何とも面目次第もありません、跣足《はだし》で庭へ遁《に》げましたのも、盟《ちか》って言います。あなたのお姿を見てからではないのです。……
……聞いたばかり、聞いたばかりで腰も抜かさないのは、まだしもの僥倖《しあわせ》で飛出したんです。今しがた、あなたが、大方、この長屋の総木戸をお入んなすった時でしょう。その頃です、唯今のお茶っぴいが、その窓から頭を出して、「花嫁が来た。」と言ったんです。――来たらば知らしておくれよ、と不断、お茶っぴいを斥候《ものみ》同然だったものですから、聞くか聞かないに、何とも、不状《ぶざま》を演じました。……いま、そのわけを話しますが。……
……煙草は……それはありがたい、お嫌《きらい》でも、お友だちがいに、すぱすぱ。」
と妙に砕けて、変に勢《きお》って、しょげて、笑って、すぱすぱ。
三十八
「……また何も、ここへ友達を引張《ひっぱ》り出して、それに託《かず》けるのは卑怯《ひきょう》ですが、二月ばかり前でした。あなたなぞの前では、お話もいかがわしい悪場所の、それも獣の巣のような処へ引掛《ひっかか》ったんです。泥々に酔って二階へ押上って、つい蹌踉《よろ》けなりに梯子段《はしごだん》の欄干へつかまると、ぐらぐらします。屋台根こそぎ波を打って、下土間へ真逆《まっさか》に落ちようとしました……と云った楼《うち》で。……障子の小間《こま》は残らず穴ばかり。――その一つ一つから化ものが覗いて、蛞蝓《なめくじ》の舌を出しそうな様子ですが、ふるえるほど寒くはありませんから、まず可《い》いとして、その隅っ子の柱に凭掛《よりかか》って、遣手《やりて》という三途河《さんずがわ》の婆さんが、蒼黒《あおぐろ》い、痩《や》せた脚を突出してましてね。」
……褌《ふんどし》というのを……控えたらしい。
「舐《な》めちゃ取り、舐めちゃ取り、蚤《のみ》だか、虱《しらみ》だか捻《ひね》っています。――あなたも、こんな、私のようなものの処へおいで下すった因果に、何事も忘れてお聞き下さい。
その蚤だか虱だかを捻る片手間に、部屋から下ったという蕎麦の残り、伸びて、蚯蚓《みみず》のようにのたくるのを撮《つま》んじゃ食い、撮んじゃ食う。そこをまた、牙と舌を剥出《むきだ》して、犬ですね、狆《ちん》か面《つら》の長い洋犬などならまだしも、尻尾を捲上《まきあ》げて、耳の押立《おった》った、痩せて赤剥《あかはげ》だらけなのが喘《あえ》ぎながら掻食《かっくら》う、と云っただけでも浅ましさが――ああ、そうだ。」
糸七は煙管を落した。
「あなたの吉原の随筆は、たしか、題は『あさましきもの。』でしたね。私が飛んだ『べッかッこ』をした。」
「もう、どうぞ。」
お京は膝に袖を千鳥に掛けたまま、雌浪《めなみ》を柔《やわらか》に肩に打たせた。
「大目玉を頂きましたよ、先生に。」
「もうどうぞ、ご堪忍。」
「いや、お詫びは私こそ、いわばやっぱりあなたの罰です。その「浅ましい」一つの穴で……部屋は真暗《まっくら》、がたがた廊下の曲角に、洋鉄《ブリキ》の洋燈《ランプ》一つ。余り情《なさけ》ない、「あかりが欲《ほし》い。」……「蝋燭代を別に出せ。」で、奈落に落ちて一夜あける、と勘定は一度済ましたんですが、茶を一杯にも附足しの再勘定、その勘定書を、その勘定を催促しても、わざと待たして持って来ません。これが、ぼると言います。阿漕《あこぎ》な術《やつ》です。はめられたんです。といううちに、朝直し……遊蕩《あそび》が二度|振《ぶり》になって、また、前勘定、このつけを出されると、金が足りない、足りないどころですか、まるで始末が出来ないのです。
――「あさましきもの」が引受けてくれました、暑いのに、破屏風《やぶれびょうぶ》にすくんで、かびた蒲団に縮まったありさまは、人間に、そのまま草が生えそうです。無面目《むめんぼく》で廊下へ顔も出せません。お螻《けら》の兄さん、ちと、ご運動とか云って、「あさましきもの」に廊下へ連出されると、トトトン、トトトンと太鼓の音。それを、欄干《てすり》から覗《のぞ》きますとね、漬物|桶《おけ》、炭俵と並んで、小さな堂があって、子供が四五人――午《うま》の日でした。お稲荷講、万年講、お稲荷さんのお初穂《はつ》。「お初穂よ、」といって、女がお捻《ひねり》を下へ投げると、揃って上を向いた。青いんだの、黄色いんだの、子供の狐の面を五つ見た時は、欄干越《てすりごし》に廂《ひさし》へ下った女の扱帯《しごき》が、真赤《まっか》な尻尾に見えたんです。
その女が、これも化けた一つの欺《て》で、俥《くるま》まで拵《こしら》えて、無事に帰してくれたんです。が、こちらが身震《みぶるい》をするにつけて、立替《たてかえ》の催促が烈《はげ》しく来ます。金子《かね》は為替《かわせ》で無理算段で返しましたが、はじめての客に帰りの俥まで達引《たてひ》いた以上、情夫《まぶ》――情夫(苦い顔して)が一度きり鼬《いたち》の道では、帳場はじめ、朋輩へ顔が立たぬ、今日来い、明日来い、それこそ日ぶみ、矢ぶみで。――もうこの頃では、押掛ける、引摺りに行く、連れて帰る、と決闘状《はたしじょう》。それが可恐《おそろし》さに、「女が来たら、俥が見えたら、」と、お滝といいます……あのお茶っぴいに、見張を頼んで、まさか、女郎、とはいえませんから、そこは附景気に、「嫁が来るんだ。遠くからでも見えたら頼むよ。」合点ものです。そいつが、今です、前刻《さっき》ですよ。そこから覗いて、「来たよ、花嫁。」……
一言で面くらって、あなたのお顔も、姿も見ないで、跣足《はだし》で庭へ逃出した始末です。断じて、決して、あなたと知って逃げたのではありません。」
しまった! 大家が家賃の催促でも済んだものを、馬鹿の智慧は後からで、お京のとりなしの純真さに、つい、事実をあからさまに、達引だの、いや矢ぶみだの、あさましく聞きはしないか、と、舌がたちまち縮んで咽喉《のど》へ声の詰る処へ。
「光邦様。」
日ぶみ矢ぶみの色男の汗を流した顔を見よ。いまうわさしたその窓から、お滝の蝶々髷が、こん度は羽目板の壊れを踏んで上ったらしい。口まで出た。
「お客様の、ご馳走は。……つかいに行って上げるわよ。」
また、冷汗だ、銭がない。
三十九
「これは、これは、おうようこそや。……今の、上《あが》り端《ばな》を覗いたら、見事な駒下駄《かっこ》があったでの。」
ちと以前より、ごそごそと、台所で、土瓶、炭、火箸、七輪。もの音がしていたが、すぐその一枚の扉《ひらき》から、七十八の祖母が、茶盆に何か載せて出た。
これにお京のお諸礼式は、長屋に過ぎて、瞠目《どうもく》に価値《あたい》した。
「あの、お祖母様《ばあさま》……お祖母様。」
二声目に、やっと聞えて、
「はい、はい。」
「辻町さんに……」
「…………」
「糸七さんに……」
肩身を狭く、ちょっと留めて、
「そんな事いったって、分りませんよ。」
「……お孫さんに。……」
「はい。」
「いろいろとお世話になります。」
「……孫めは幸福《しあわせ》、お綺麗なお客様で、ばばが目にも枯樹に花じゃ。ほんにこの孫《こ》の母親、わしには嫁ごじゃ。江戸から持ってござっての、大事にさしゃった錦絵にそのままじゃ。後の節句にも、お雛様《ひなさま》に進ぜさした、振出しの、有平《あるへい》、金米糖でさえ、その可愛らしいお口よごしじゃろうに、山家《やまが》在所の椎《しい》の実一つ、こんなもの。」
と、へぎ盆も有合さず、菜漬づかいの、小皿をそこへ、二人分。糸七は俯向《うつむ》いた。一雪《きみ》よ、聞け。山果庭ニ落チテ、朝三《チョウサン》ノ食|秋風《シュウフウ》ニ※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2−92−73]《ア》クとは申せども、この椎の実とやがて栗は、その椎の木も、栗の木も、背戸の奥深く真暗《まっくら》な大藪《おおやぶ》の多数の蛇《くちなわ》と、南瓜畑の夥多《おびただ》しい蝦蟇《がま》と、相戦う衝《しょう》に当る、地境の悪所にあって、お滝の夜叉さえ辟易《へきえき》する。……小雀《こがら》頬白《ほおじろ》も手にとまる、仏づくった、祖母でなくては拾われぬ。
「それからの、青紫蘇《あおじそ》を粉にしたのじゃがの、毒にはならぬで、まいれ。」
と湯気の立つ茶椀。――南無三宝、茶が切れた。
「ほんにの、これが春で、餅草があると、私が手に、すぐに団子なと拵えて進じょうもの。孫が、ほっておきで、南瓜の葉ばかり何にもないがの。」
と寂しい笑いの、口には歯がない。
お京がいとしげに打傾き、
「お祖母様、いまに可愛い嫁菜が咲きます。」
「嫁菜がの、嬉しやの、あなたのような、のう。」
糸七は仰天した、人参のごとく真《しん》まで染《そま》って、
「お祖母さん、お祖母さん、お祖母さん、そんな事より、仏間へ行って、この、きれいな、珍らしいお客様の見えた事を、父、母に話して下さい。」
「おいの、そうじゃの。」
何と思ったか、お京が急いで、さも、遠慮のないように椎の実を取った。
「お祖母様。」
「……おお、食べてくださるかの。」
「おいしい……」
と、長いまつ毛をふるわせて、
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