ずるずると、窓下へ、どしんと響く。
 弦光は坐り直して、
「出直しだ、出直しだ。この上はただ、偏《ひとえ》に上杉さんに頼むんだ。……と云って俺《おれ》も若いものよ。あの娘《こ》を拝むとも言いたくないから、似合いだとか、頃合いだとか、そこは何とか、糸的《きみ》の心づもりで、糸的《きみ》の心からこの縁談を思いついたようによ、な、上杉さんに。」
「分ったよ。」
「直ぐにも頼む、もう、あの娘は俺の命だから、あの娘なしには半日も――午砲《どん》! までも生きられない。ううむ。」
 うむと唸《うな》って、徳利を枕にごろんとなると、辷《すべ》った徳利が勃然《むっく》と起き、弦光の頸窪《ぼんのくぼ》はころんと辷って、畳の縁《へり》で頭を抱える。
「討死したな。……何も功徳だ、すぐにも先生の許《とこ》へ駆附けよう。――湯に行きたいな。」
「勿論よ。清めてくれ。――婆や、湯に行く支度だ。婆や婆や。」
「ふええ。」
「あれだ、聞いたか――池の端茅町の声でないよ、麻布|狸穴《まみあな》の音《おん》だ。ああ、返事と一所に、鶯を聞きたいなあ。」
 やがて、水の流《ながれ》を前にして、眩《まばゆ》い日南《ひなた》の糸桜に、燦々《さんさん》と雪の咲いた、暖簾《のれん》の藍《あい》もぱっと明《あかる》い、桜湯の前へ立った。
「糸ちゃん、望みが叶うと、よ、もやいの石鹸《しゃぼん》なんか使わせやしない。お京さんの肌の香が芬《ぷん》とする、女持の小函《こばこ》をわざと持たせてあげるよ。」
 悚然《ぞっ》として、糸七は不思議に女の肌を感じた。
「昨夜《ゆうべ》ふられているんだい。」
「おや。」
 背中を、どしんと撲《くら》わせた。
「こいつ、こいつ。――しかし、さすがに上杉先生のお仕込みだ、もてたと言わない。何だ、見ろ。耳朶《みみたぶ》に女の髪の毛が巻きついているじゃないか。」
「頭巾を借りて被《かぶ》ったから、矢野《きみ》のだよ。ああ、何だか、急に、むずむずする。」
「長いなあ、長い、細い、真漆《まうるし》。……口惜《くやし》いが、俺のはこんな美人じゃない。待てここは二瀬よ。藍染川へ、忍川へ……流すは惜しい、桜の枝へ……」――
 桜の枝が、たよたよして、しずれ落ちに雪がさらさらと落ちて、巻きかけた一筋のその黒髪の丈を包んだ。
 上野の山の松杉の遠く真白《まっしろ》な中から、柳が青く綾《あや》に流れて、御堂《みどう》の棟は日の光紫に、あの氷月の背戸あたり、雪の陽炎《かげろ》う幻の薄絹かけて、紅《くれない》の花が、二つ、三つ。

       三十三

 辻町糸七は、ぽかんとしていた仕入もの、小机の傍《わき》の、火もない炉辺《ろばた》から、縁を飛んで――跣足《はだし》で逃げた。
 逃げた庭――庭などとは贅《ぜい》の言分。放題の荒地で、雑草は、やがて人だけに生茂《おいしげ》った、上へ伸び、下を這《は》って、芥穴《ごみあな》を自然に躍った、怪しき精のごとき南瓜《かぼちゃ》の種が、いつしか一面に生え拡がり、縦横無尽に蔓《はびこ》り乱れて、十三夜が近いというのに、今が黄色な花ざかり。花盛りで一つも実のない、ない実の、そのあって可《い》い実の数ほど、大きな蝦蟇《がま》がのそのそと這いありく。
 歌俳諧や絵につかう花野茅原とは品変って、自《おのず》から野武士の殺気が籠《こも》るのであるから、蝶々も近づかない。赤蜻蛉《あかとんぼ》もツイとそれて、尾花の上から視《なが》めている。……その薄《すすき》さえ、垣根の隅に忍ぶばかり、南瓜の勢《いきおい》は逞《たくま》しく、葉の一枚も、烏を組んで伏せそうである。
 ――遠くに居る家主が、かつて適切なる提案をした。曰く、これでは地味が荒れ果てる、無代《ただ》で広い背戸を皆借そうから、胡瓜《きゅうり》なり、茄子《なす》なり、そのかわり、実のない南瓜を刈取って雑草を抜けという。が、肥料なしに、前栽《せんざい》もの、実入《みいり》はない。二十六、七の若いものに、畠《はたけ》いじりは第一無理だし、南瓜の蔓《つる》は焚附《たきつけ》にもならぬ。町に、隠れたる本草家があって、その用途を伝授しても、鎌を買う資本《もとで》がない、従ってかの女、いや、あの野郎の狼藉《ろうぜき》にまかせてあるが、跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》の凄《すさま》じさは、時々切って棄てないと、木戸を攀《よ》じ、縁側へ這いかかる。……こんな荒地は、糸七ごときに、自《おのず》からの禄と見えて、一方は隣地の華族|邸《やしき》の厚い塀だし、一方は大きな植木屋の竹垣だし、この貸屋の背戸として、小さく囲った、まばら垣は、早く朽崩れたから杭もないのに、縁側の片隅に、がたがただけれども、南瓜の蔓が開《あ》け閉《た》てする、その木戸が一つ附いていて、前長屋総体と区切があるから、およそ一百坪に余るのが、おのずから、糸七の背戸のようになっている。
(――そこへ遁《に》げた――)
 糸七は、南瓜の葉を被《かぶ》らんばかり、驚破《すわ》といえば躍越えて遁げるつもりの植木屋の竹垣について、薄《すすき》の根にかくれて、蝦蟇《がま》のように跼《しゃが》んで、遁げた抜けがらの巣を――窺《うかが》えば――
 ――籠《こも》るのは、故郷から出て来て寄食している、糸七の甥の少年で、小説家の巣に居ながら、心掛は違う、見上げたものの大学志願で、試験準備に、神田|辺《あたり》の学校へ通って、折からちょうど居なかった。
 七十八歳になるただ一人、祖母ばかり。大塚の場末の――俥《くるま》がその辻まで来ると、もう郡部だといって必ず賃銀の増加《まし》を強請《ねだ》る――馬方の通る町筋を、奥へ引込《ひっこ》んだ格子戸わきの、三畳の小部屋で。……ああ、他事《ひとごと》ながらいたわしくて、記すのに筆がふるえる、遥々《はるばる》と故郷《おくに》から引取られて出て来なすっても、不心得な小説孫が、式《かた》のごとき体装《ていたらく》であるから、汽車の中で睡《ねむ》るにもその上へ白髪《しらが》の額を押当てて頂いた、勿体ない、鼠穴のある古葛籠《ふるつづら》を、仏壇のない押入の上段《うわだん》に据えて、上へ、お仏像と先祖代々の位牌《いはい》を飾って、今朝も手向けた一|銭《もん》蝋燭《ろうそく》も、三分一が処で、倹約で消《しめ》した、糸心のあと、ちょんぼりと黒いのを背《せな》に、日だけはよく当る、そこで、破足袋《やぶれたび》の継ぎものをしてござった。
 さて、その、ひょいと持って軽く置くと、古葛籠の上へも据りそうな、小さな白髪の祖母《おばあ》さんの起居《たちい》の様子もなしに、悉《くわ》しく言えば誰が取次いだという形もなしに、土間から格子戸まで見通しの框《かまち》の板敷、取附《とっつ》きの縦四畳、框を仕切った二枚の障子が、すっと開いて、開いた、と思うと、すぐと閉った。穴だらけの障子紙へ、穴から抜けたように、すらりと立った、霧のような女の姿。
 姿を。……
 ここから、南瓜の葉がくれに熟《じっ》と覗《のぞ》くと、霧が濃くなり露のしたたる、水々とした濡色の島田|髷《まげ》に、平打《ひらうち》がキラリとした。中洲のお京さん、一雪である。
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糸七は、蟇《ひき》と踞み、
南瓜の葉がくれ、
尾花を透かして、
蜻蛉の目で。
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       三十四

 ――この破屋《あばらや》へ、ついぞない、何しに来たろう――
 来やがったろう、と言いたくらいだ。そりの合わない……というのも行き過ぎか、合うにも合わないにも妙齢《としごろ》の女なんぞ影も見せたことのない処へ何しに来たろう。――ああ、そうか。矢野(弦光)の、通俗、首ったけな惚《ほ》れかたを、台町の先生に直ぐ取次いだところ、「好《よ》かろう。」と笑いながらの声が掛《かか》った。先生の一言だ、「好かろう。」は引受けたと同然だから、いずれ嬉しい返事を、と弦光も待つうちに、さあ……梅雨ごろだったか、降っていた。持崩した身は、雨にたたかれた藁《わら》のようになって、どこかの溝へ引掛《ひっかか》り、くさり抜いた、しょびたれで、昼間は見っともなくて長屋|居廻《いまわり》へ顔も出せない。日が暮れて晩《おそ》く帰ると、牛込の料理屋から、俥夫《くるまや》が持って駈《か》けつけたという、先生の手紙があって、「弦光座にあり、待つ」とおっしゃる。……飛びたいにも、駈けたいにも、俥賃なぞあるんじゃない、天保銭の翼も持たぬ。破傘《やれがさ》の尻端折《しりっぱしょり》、下駄をつまんだ素跣足《すはだし》が、茗荷谷《みょうがだに》を真黒《まっくろ》に、切支丹坂《きりしたんざか》下から第六天をまっしぐら。中の橋へ出て、牛込へ潜込《もぐりこ》んだ、が、ああ、後《おく》れた。料理屋の玄関へ俥が並んで、※[#「車+隣のつくり」、第3水準1−92−48]々《からから》と、一番の幌《ほろ》の中から、「遅いじゃないか。」先生の声にひやりとすると、その後から、「待っていたんですよ。」という声は、令夫人。こんな処へ御同行は、見た事、聞いた事もない、と呆れた、がまた吃驚《びっくり》。三つ目の俥の楫棒《かじぼう》を上げた、幌に覗かれた島田の白い顔が……
 ……あの、お京……いやに、ひったり俯向《うつむ》いた……
 幌の中で、どしばたして、弦光が、「辻町か、引返《ひっかえ》して飲もう」という時、先生の俥がちょっとあと戻りして、「矢野は酔ってる、もう帰んな。……塾のものには誰にも黙っているんだぜ。」――馬鹿にも分った、これは、見合だ。
 納ったか、悦に入ったか、気取ったか、弦光め、それきり多日《しばらく》顔を見せに来ない。酒でも催促するようで癪だからこっちからは出向かずと――塾では先生にお目には掛《かか》るが、月府、弁持、久須利、荷高の面々が列している。口留をされたほどだから話は出ずと。――結婚はいつだ、とその後、矢野に打撞《ぶつか》れば、「息子は世間を知らないよ、紳士、淑女の一生の婚礼だ、引きつけで対妓《あいかた》が極《きま》るように、そう手軽に行くものか、ははは。」と笑《わらい》の、何だか空虚《うつろ》さ。所帯気で緊《しま》ると、笑も理に落ちるかと思ったっけ。やがて、故郷、佐賀県の田舎の実家に、整理すべき事がある、といって、夏うち国に帰ったのが――まだ出て来ない。それについて、御縁女、相談に来《わ》せられたかな……
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糸七は蟇と踞み、
南瓜の葉がくれ、
尾花を透かして、
蜻蛉の目で、
[#ここで字下げ終わり]
 覗きながら、咄嗟《とっさ》に心《むね》で思ううちに、框《かまち》の障子の、そこに立ったお京の、あでやかに何だか寂しい姿が、褄さきが冷いように、畳をしとしと運ぶのが見えて、縁の敷居際で、すんなりと撓《しな》うばかり、浮腰の膝をついた。
 同時に南瓜の葉が一面に波を打って、真黄色《まっきいろ》な鴎《かもめ》がぱっと立ち、尾花が白く、冷い泡で、糸七の面《つら》を叩いた。
 大塚の通《とおり》を、舟が漕《こ》ぎ、帆が走る……
 ――や、あの時にそっくりだ。そうだ、しかも八月極暑よ。去んぬる年、一葉女史を、福山町の魔窟に訪ねたと同じ雑誌社の用向きで、中洲の住居《すまい》を音信《おとず》れた事がある。府会議員の邸と聞いたが、場処柄だろう、四枚格子の意気造り。式台で声をかけると、女中も待たず、夕顔のほんのり咲いた、肌をそのままかと思う浴衣が、青白い立姿で、蘆戸《よしど》の蔭へ透いて映ると、すぐ敷居際に――ここに今見ると同じ、支膝《つきひざ》の七分身。紅《くれない》、緋《ひ》でない、水紅《とき》より淡い肉色の縮緬《ちりめん》が、片端とけざまに弛《ゆる》んで胸へふっさりと巻いた、背負上《しょいあげ》の不思議な色気がまだ目に消えない。
 ――原稿を十四五枚、言託《ことづ》けただけで帰ろうと思うのを、「どうぞ、」と黙って入ってしまった。埃《ほこり》だらけの足を、下駄へ引擦《ひっこす》ったなり、中二階のような夏座敷へ。……団扇《うちわ》を出したっけな、お京も持って。さて、何を聞いたか、饒舌《しゃべ》ったか、腰掛窓の机
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