女房は頬をすぼめ、眉を寄せて、
「……まあ。」
「慌てて俥をとめましてね、上も下も見ましたけれど、別に何にもないんです。でも、可厭《いや》らしく、変に臭《にお》うようで、気味が悪くって、気味が悪くって。無理にも、何でもお願いしてと思っても、旅宿《やどや》でしょう、料理屋ですもの、両方とも。……お店の看板が「かし本」と見えました時は、ほんとうに、地獄で……血の池で……蓮《はす》の花を見たようでしたわ。いきなり冷水《おひや》を、とも言いかねましたけれど、そのうちに、永洗の、名もいいんですのね、『たそがれ』の島田に、むら雨のかかる処だの、上杉先生の、結構なお墨の色を見ましたら、実は、いくらかすっきりして来ましたんです。」
 珊瑚碧樹の水茎は、清《すずし》く、その汚濁《おじょく》を洗ったのである。
「いつまでも、さっきのままですと、私はほんとうに、おいらんの心中ではないんですけど、死んでしまいたいほどでしたよ。」
 大袈裟《おおげさ》なのを笑いもしない女房は、その路連《みちづれ》、半町|此方《てまえ》ぐらいには同感であったらしい
「ええええお易い事。まあ、ごじょうだんをおっしゃって、そんなお人
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