の瞬間、誰が、その藍染川、忍川、不忍の池を眺めた雪の糸桜を憶起《おもいおこ》さずにいられよう。
 見る見る、黒髪に散る雪が、輝く膚《はだ》を露呈《あらわ》して、再び、あの淡紅色《ときいろ》の紗綾形《さやがた》の、品よく和やかに、情ありげな背負揚が解け、襟が開け緋が乱れて、石鹸《シャボン》の香を聞いてさえ、身に沁《し》みた雪を欺《あざむ》く肩を、胸を、腕《かいな》を……青大将の黒い歯が、黒い唾が、黒い舌が。――
 糸七は拳《こぶし》を固めて宙を打った――「この狂人《きちがい》」――「悪魔が憑《つ》いたか、狂わすか、しまったり」……と叫びつつ、蝦蟇を驚かしつつ、敷きわがね、伸び靡いた、一条《ひとすじ》の黒髪の上を、光琳の錦を敷いた木《こ》の葉ぢらしの帯の上のごとく、転々として転げ倒れた。
「光邦様、光邦様。」
 ぎょっとすると、お滝夜叉。
「あい、お手紙。ほら、さっき来たんだけれどね、ね、花嫁が妬《や》くと悪いから預っといたのよ、えらいでしょう。……女の人の手紙なんですもの。」
 ――お伽堂、時より――で、都合で帰郷する事になり、それにつけ、いつぞや、『たそがれ』など、あなたを大のご贔屓《
前へ 次へ
全151ページ中149ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング