まち朱筆の一棒を啖《くら》うだけで、気の吐きどころのない、嵎《ぐう》を負う虎、壁裏の蝙蝠《こうもり》、穴籠《あなごもり》の熊か、中には瓜子《うりこ》という可憐なのも、気ばかり手負の荒猪《あらじし》だろう。
見す見す一雪女史に先《せん》を越されて、畜生め、でいる処へ、私のその『べっかっこ』だ、行《や》った! 行った! 痛快! などと喝采だから、内々得意でいたっけが――一日《あるひ》、久しく御不沙汰で、台町へ機嫌伺いに出た処が、三和土《たたき》に、見馴れた二足の下駄が揃えてある。先生お出掛けらしい。玄関には下の塾から交代の当番で、弁持十二が居るのさ。日曜だったし……すぐの座敷で、先生は箪笥《たんす》の前で着換えの最中、博多の帯をきりりと緊《しま》った処なんだ。令夫人は藤色の手柄の高尚《こうとう》な円髷《まるまげ》で袴を持って支膝《つきひざ》という処へ、敷居越にこの面《つら》が、ヌッと出た、と思いたまえ。」
「その顔だね。」
「この面《つら》だ。――今朝なぞは特に拙いよ。「糸。」縮んだよ、先生の声が激しい。「お前、中洲のお京の悪口を書いたそうだな。」いきなりだろう、へどもどした。「は、いえ、別に。」「何、何を……悪気はない。悪気がなくって、悪口《あっこう》を、何だ、洒落《しゃれ》だ。黙んな、黙んな。洒落は一廉《ひとかど》の人間のする事、云う事だ。そのつらで洒落なんぞ、第一読者に対して無礼だよ。べっかっこが聞いて呆れる。そのべっかっこという面を俺の前へ出して見ろ。うわさに聞けば、友子づれで、吉原の河岸をせせって。格子へ飛びつくというから、だぼ沙魚《はぜ》のようになりやがった。――弁持……」十二のくすくす笑っているのを呼びかけて、「溝《どぶ》をせせって、格子へ飛びつくのは、だぼ沙魚じゃない……お前はよく、くだらない事を知っている、何だっけな。」弁持が鹿爪らしく、「は、飛沙魚《とびはぜ》です、は。」「飛沙魚だ、贅沢《ぜいたく》だ。もぐり沙魚の孑孑《ぼうふら》だ。――先方《さき》は女だ、娘だよ。可哀そうに、(口惜《くやし》いか、)と俺が聞いたら、(恥かしい、)と云って、ほろりとしたんだ、袖で顔を隠したよ。孑孑め、女だって友だちだ、頼みある夥間《なかま》じゃないか。黒髪を腰へ捌《さば》いた、緋縅《ひおどし》の若い女が、敵の城へ一番乗で塀際へ着いた処を、孑孑が這上《はいあが》って、
前へ
次へ
全76ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング