乳の下を擽《くすぐ》って、同じ溝《どぶ》の中へ引込むんだ。」と……」
「分った、もう可《い》い、もう可い。」
と弦光は膝も浮きそうに、火鉢の向うで、肩をわななかせて、手を振った。
「雪のごとき、玉のごとき、乳の下を……串戯《じょうだん》にしろ、話にしろ、ものの譬喩《たとえ》にしろ、聞いちゃおられん。私には、今日《こんにち》、今朝《こんちょう》よりの私には――ははははは。」
寂しい笑いで、
「話はおかしいが、大心配な事が出来た。糸|的《こう》の先生、上杉さんは、その様子じゃ大分一雪女史が贔屓《ひいき》らしい。あの容色《きりょう》で、しんなりと肩で嬌態《あま》えて、机の傍《そば》よ。先生が二階の時なぞは、令夫人やや穏《おだやか》ならずというんじゃないかな。」
「串戯《じょうだん》じゃない、片田舎の面疱《にきび》だらけの心得違《こころえちがい》の教員なぞじゃあるまいし、女の弟子を。失礼だ。」
「失礼、結構、失礼で安心した。しかし、一言でそうむきになって、腰のものを振廻すなよ。だから振られるんだ、遊女《おいらん》持てのしない小道具だ。淀屋《よどや》か何か知らないが、黒の合羽張《かっぱばり》の両提《ふたつさげ》の煙草入《たばこいれ》、火皿までついてるが、何じゃ、塾じゃ揃いかい。」
「先生に貰ったんだ。弁持と二人さ、あとは巻莨《まきたばこ》だからね。」
「何しろ真田《さなだ》の郎党が秘《かく》し持った張抜の短銃《たんづつ》と来て、物騒だ。」
「こんなものを物騒がって、一雪を細君に……しっかりおしよ。月村はね、駿河台へ通って、依田学海翁に学んでいるんだ。」
と居直った。
二十九
「学海翁に。」
弦光は※[#「目+登」、第3水準1−88−91]目《とうもく》一番した。
「まさか剣術じゃあるまいな。それじゃ、僧正坊の術譲りと……そうか、言わずとも白氏文集。さもありなん、これぞ淑女のたしなむ処よ。」
「違う違う、稗史《はいし》だそうだ。」
「まさか、金瓶梅《きんぺいばい》……」
「紅楼夢《こうろうむ》かも知れないよ。」
「何だ、紅楼夢だ。清《しん》代第一の艶書、翁が得意だと聞いてはいるが、待った、待った。」
と上目づかいに、酒の呼吸《いき》を、ふっと吐いて、
「学海|説一雪紅楼夢《いっせつにこうろうむをとく》――待った、待った、第一の艶書を、あの娘《こ》に説
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