薄紅梅
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)演義三国誌|常套手段《おきまり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]
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一
麹町《こうじまち》九段――中坂《なかざか》は、武蔵鐙《むさしあぶみ》、江戸砂子《えどすなご》、惣鹿子《そうかのこ》等によれば、いや、そんな事はどうでもいい。このあたりこそ、明治時代文芸発程の名地である。かつて文壇の梁山泊《りょうざんぱく》と称えられた硯友社《けんゆうしゃ》、その星座の各員が陣を構え、塞頭《さいとう》高らかに、我楽多文庫《がらくたぶんこ》の旗を飜《ひるがえ》した、編輯所《へんしゅうじょ》があって、心織筆耕の花を咲かせ、綾《あや》なす霞を靉靆《たなび》かせた。
若手の作者よ、小説家よ!……天晴《あっぱ》れ、と一つ煽《あお》いでやろうと、扇子を片手に、当時文界の老将軍――佐久良《さくら》藩の碩儒《せきじゅ》で、むかし江戸のお留守居と聞けば、武辺、文道、両達の依田《よだ》学海翁が、一《ある》夏土用の日盛《ひざかり》の事……生平《きびら》の揚羽蝶の漆紋に、袴《はかま》着用、大刀がわりの杖を片手に、芝居の意休を一ゆがきして洒然《さっぱり》と灰汁《あく》を抜いたような、白い髯《ひげ》を、爽《さわやか》に扱《しご》きながら、これ、はじめての見参。……
「頼む。」
があいにく玄関も何もない。扇を腰に、がたがたと格子を開けると、汚い二階家の、上も下も、がらんとして、ジイと、ただ、招魂社辺の蝉の声が遠く沁込《しみこ》む、明放しの三間ばかり。人影も見えないのは、演義三国誌|常套手段《おきまり》の、城門に敵を詭《あざむ》く計略。そこは先生、武辺者だから、身構えしつつ、土間|取附《とっつき》の急な階子段《はしごだん》を屹《きっ》と仰いで、大音に、
「頼もう!」
人の気勢《けはい》もない。
「頼もう。」
途端に奇なる声あり。
「ダカレケダカ、ダカレケダカ。」
その音《おん》、まことに不気味にして、化猫が、抱かれたい、抱かれたい、と天井裏で鳴くように聞える。坂下の酒屋の小僧なら、そ
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