のまま腰を抜かす処を、学海先生、杖の手に気を入れて、再び大音に、
「頼む。」
「ダカレケダカ、と云ってるじゃあないか。へん、野暮め。」
「頼もう。」
「そいつも、一つ、タカノコモコ、と願いたいよ。……何しろ、米八《よねはち》、仇吉《あだきち》の声じゃないな。彼女等《きゃつら》には梅柳というのが春《しゅん》だ。夏やせをする質《たち》だから、今頃は出あるかねえ。」
「頼むと申す……」
「何ものだ。」
 と、いきなり段の口へ、青天の雷神《かみなり》が倒《の》めったように這身《はいみ》で大きな頭を出したのは、虎の皮でない、木綿越中の素裸《すっぱだか》――ちょっと今時の夫人、令嬢がたのために註しよう――唄に……
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……どうすりゃ添われる縁じゃやら、じれったいね……
[#ここで字下げ終わり]
 というのがある。――恋は思案のほか――という折紙附の格言がある。よってもって、自から称した、すなわちこれ、自劣亭《じれってい》思案外史である。大学中途の秀才にして、のぼせを下げる三分刈の巨頭は、入道の名に謳《うた》われ、かつは、硯友社の彦左衛門、と自から任じ、人も許して、夜討朝駆に寸分の油断のない、血気|盛《ざかり》の早具足なのが、昼寝時の不意討に、蠅叩《はえたたき》もとりあえず、ひたと向合った下土間の白い髯を、あべこべに、炎天九十度の物干から、僧正坊が覗《のぞ》いたか、と驚いた、という話がある。

       二

 おなじ人が、金三円ばかりなり、我楽多文庫売上の暮近い集金の天保銭……世に当百ときこえた、小判形が集まったのを、引攫《ひっさら》って、目ざす吉原、全盛の北の廓《くるわ》へ討入るのに、錣《しころ》の数ではないけれども、十枚で八銭だから、員数およそ四百枚、袂《たもと》、懐中《ふところ》、こいつは持てない。辻俥《つじぐるま》の蹴込《けこみ》へ、ドンと積んで、山塞《さんさい》の中坂を乗下ろし、三崎|町《ちょう》の原を切って、水道橋から壱岐殿坂《いきどのざか》へ、ありゃありゃと、俥夫《くるまや》と矢声を合わせ、切通《きりどおし》あたりになると、社中随一のハイカラで、鼻めがねを掛けている、中《ちゅう》山高、洋服の小説家に、天保銭の翼《はね》が生えた、緡束《さしたば》を両手に、二筋振って、きおいで左右へ捌《さば》いた形は、空を飛んで翔《か》けるがごとし。不忍池《し
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