……その意気や、仙台、紀文を凌駕《りょうが》するものである。
 と、大理石の建物にはあるまじき、ひょろひょろとした楽書《らくがき》の形になって彳《たたず》む処に、お濠《ほり》の方から、円タクが、するすると流して来て、運転手台から、仰向《あおむ》けに指を三本出した。
「これだ。」
 外套の袖を浮せて膝をたたいた。番町は、何のために、この床屋へ来たんだ。あまりそこらに焼芋の匂《におい》がするから、気をかえようと髪を洗いに来たのである。そうだ、焼芋の事を、ここにちなんで(真珠)としよう。
 ものは称呼《となえ》も大事である。辻町糸七が、その時もし、真珠、と云って策を立てたら、弦光も即諾して、こま切《ぎれ》同然な竹の皮包は持たなかったに違いない。雪に真珠を食に充《あ》て、真珠をもって手を暖むとせんか、含玉鳳炭《がんぎょくほうたん》の奢侈《しゃし》、蓋《けだ》し開元天宝の豪華である。
 即時、その三本に二貫たして、円タクで帰ったが、さて、思うに大分道草――(これも真珠としよう)――真珠を食った。
 茅町の弦光の借屋の膳の上には、芋がらの汁と、葡萄豆ぽっちり、牛鍋には糸菎蒻ばかりが、火だけは盛《さかん》だから炎天の蚯蚓《みみず》のようだ、焦げて残っている、と云った処で、真珠を食ったあとだから、気が驕《おご》って、そんなものには、構っておられん。
 本文を取急ごう。
 その主意たるや、要するに矢野弦光が、その日、今朝、真《しん》もって、月村一雪、お京さんの雪の姿に惚れたのである。
 一升徳利の転がったを枕にして、投足の片膝組みの仰向けで、酒の酔を陰に沈めて、天井を睨んでいたのが、むっくり、がばと起きると、どたりと凭掛《よりかか》ったまま、窓下の机をハタと打った。崖下の雪解の音は余所《よそ》よりも。……
 いま、障子外の雨落の雫《しずく》がこの響きで刎《は》ねそうであった。
「糸|的《こう》。」
「ええ、驚いた。」
 この方は、袖よじれに横倒れで、鉄張りの煙管を持った手を投出したまま、吸殻を忘れたらしい、畳に焼焦――最も紳士の恥ずべきこと――を拵《こしら》えながら、うとうとしていた。
「呼んだぐらいで驚いてくれちゃ困る。よ、糸|的《こう》、いい名だなあ、従兄弟《いとこ》に聞えて、親身のようだ。そのつもりで聞いてくれよ。ああ私は実は酔わん、酔えなかったんだよ。生れて三十年にして、いま
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