んか、そいつは可《い》い、光栄です。」
仰《おおせ》に従うと、口のまわりが……
「はい、お手拭。」
二十六
お会計はあちらで、がちゃがちゃがちゃんの方なんですが……ここで……分っていますからと、鉛筆を軽く紙片に走らせた。
この会計だが、この分では、物価|騰昇《とうしょう》寒さの砌《みぎり》、堅炭《かたずみ》三俵が処と観念の臍《ほぞ》を固めたのに、
「おうう、こんな事で。……光栄です。」
「お給仕の分もついておりますから、ご心配なく。」
「いよいよ光栄です。」
と思わず口へ出た。床屋の分を倍額に、少し内へ引込んだのである。ここにおいて、番町さんの、泉、はじめて悠然として、下足を出口へ運ぶと、クローク(預所《あずかりしょ》)とかで、青衿が、外套を受取って、着せてくれて、帽子、杖《ステッキ》、またどうぞ、というのが、それ覚えてか、いつのこと……。後朝《きぬぎぬ》に、冷い拳固を背中へくらったのとは質《たち》が違う。
噫《ああ》、噫《あ》、世も許し、人も許し、何よりも自分も許して、今時も河岸をぞめいているのであったら、ここでぷッつりと数珠を切る処だ!……思えば、むかし、夥間《なかま》の飲友達の、遊び呆《ほう》けて、多日《しばらく》寄附《よりつ》かなかった本郷の叔母さんの許《もと》を訪ねたのがあった。お柏で寝る夜具より三倍ふっくらした坐蒲団《すわりぶとん》。濃いお茶が入って、お前さんの好きな藤村の焼ぎんとんだよ、おあがり、今では宗旨が違うかい。連雀《れんじゃく》の藪蕎麦が近いから、あの佳味《おいし》いので一銚子、と言われて涙を流した。親身の情……これが無銭《ただ》である。さても、どれほどの好男《いいおとこ》に生れ交《かわ》って、どれほどの金子《かね》を使ったら、遊んでこれだけ好遇《もて》るだろう。――しかるにもかかわらず、迷いは、その叔母さんに俥賃を強請《ゆす》って北廓《なか》へ飛んだ。耽溺《たんでき》、痴乱、迷妄《めいもう》の余り、夢とも現《うつつ》ともなく、「おれの葬礼《とむらい》はいつ出る。」と云って、無理心中かと、遊女《おいらん》を驚かし、二階中を騒がせた男がある。
これにつけ、またそれよ、壱岐殿坂で鼠の印《いん》を結んでより、雪の中を傘なしで、池の端まで、などと云うにつけても、天保銭を車に積んで切通しを飛んだ、思案入道殿の方が柄が大きい。
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