奇絶、奇絶。)妙……とお言いよ。」
「言えないよ。女作家の事はまた、べつとして……馬鹿々々しいよ。」
「三馬(式亭)が馬鹿々々しい、といって……女郎買に振られて帰ったこの朝だ。俥賃《くるまちん》なしの大雪に逢って、飜訳ものの、トルストイや、ツルゲネーフと附合ったり、ゲーテ、シルレルを談じたって、何の役に立つものか。そこへ行《ゆ》くと三馬だ。お馴染《なじみ》がいにいくらか、景気をつけてくれる。――「人間万事嘘誕計《にんげんばんじうそばっかり》」――骨董と牛骨が向島へ雪見の洒落で、ふられた雪を吹飛ばそう。」
「外聞の悪いことをいうなよ、雪は知らないが、ふられたのは俺じゃないぜ。」
 と、大島の小袖に鉄無地の羽織で、角打の紐を縦に一扱《ひとしご》き扱いたのは、大学法科出の新学士。肩書の分限《ぶげん》に依って職を求むれば、速《すみやか》に玄関を構えて、新夫人にかしずかるべき処を、僻《へき》して作家を志し、名は早く聞えはするが、名実あい合《かな》わず、砕いて言えば収入《みいり》が少いから、かくの始末。藍染川と、忍川の、晴れて逢っても浮名の流れる、茅町《かやちょう》あたりの借屋に帰って、吉原がえりの外套を、今しがた脱いだところ。姓氏は矢野|弦光《げんこう》で、対手《あいて》とは四つ五つ長者である。
 さし向って、三馬とトルストイをごっちゃに饒舌《しゃべ》る、飜訳者からすれば、不埒《ふらち》ともいうべき若いのは、想像でも知れた、辻町糸七。道づれなしに心中だけは仕兼ねない、身のまわり。ほうしょの黒の五つ紋(借りもの)を鴨居《かもい》の釘に剥取《はぎと》られて、大名縞とて、笑わせる、よれよれ銘仙《めいせん》の口綿一枚。素肌の寒さ。まだ雪の雫《しずく》の干《ひ》ない足袋は、ぬれ草鞋《わらじ》のように脱いだから、素足の冷たさ。実は、フランネルの手首までの襯衣《しゃつ》は着て出たが、洗濯をしないから、仇汚《あだよご》れて、且つその……言い憎いけれど、少し臭う。遊女《おいらん》に嫌われる、と昨宵《ゆうべ》行きがけに合乗俥《あいのりぐるま》の上で弦光がからかったのを、酔った勢い、幌《ほろ》の中で肌脱ぎに引きかなぐり、松源の池が横町にあるあたりで威勢よく、ただし、竜どころか、蚤《のみ》の刺青《ほりもの》もなしに放り出した。後悔をしても追附《おっつ》かない。で、弦光のひとり寝の、浴衣をかさねた木綿
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