ようだ。中味は象牙《ぞうげ》じゃあるまい。馬の骨だろう。」……何ですか、さも、おかしそうに。――そうしますと、糸七さんは、その傍《そば》で、小さくなって。……」
 お嬢さんの唇の綻《ほころ》びた微笑《ほほえみ》に、つい笑って、
「何の事ですか、私などには解りませんの、お嬢様は。」
「存じません。」
「あれ御承知らしくていらしって……お意地の悪い、ほほほ。」
「いいえ、知りません。中坂とかの、その結綿の方ならお解りでしょうね。……それよりか、『たそがれ』の作者の糸七――まあ、私、さっきから、……此店《こちら》とお知合とはちっとも知らないもんだから、……悪かったわねえ。糸七さん、ともいいませんでした。」
「いいえ、あなた、お客様は、誰方《どなた》だって、作者の名を、さん附にはなさいません。格別、お好きな、中坂のその方だって、糸七、と呼びすてでございますの。ええ、そうでございますとも。この辺でごらんなさいまし。三崎座の女役者を、御贔負《ごひいき》は、皆呼びずてでございます。」
 言い得て女房、妙である。(おん箸入)の内容が馬の骨なら、言い得て特に妙である。が、当時梨園に擢出《ぬきんで》た、名優|久女八《くめはち》は別として、三崎座なみは情《なさけ》ない。場面を築地辺にとればまだしもであったと思う。けれども、三崎町が事実なのである。
「ほほほ、お呼びずての方が却ってお心易くって、――ああ、お茶を一つ。」
「おかみさん、ちょいと、あの、それより冷水《おひや》を。」
「冷水?」
「あの、ざぶざぶ、冷水で、この半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》を絞って下さいませんか。御無心ですが。私ね、実は、その町の曲角で、飛んだ気味の悪い事がありましてね。」

       九

「そこの旅宿《やどや》の角まで、飯田町の方から来ますとね、妾《わたし》、俥《くるま》だったんですけれど、幌《ほろ》が掛《かか》っていましたのに、何ですか、なまぬるい、ぬめりと粘った、濡れたものが、こっちの、この耳の下から頬へ触ったんです。」
 水紅色《ときいろ》の半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》が、今度は花弁《はなびら》のしぼむ状《さま》に白い指のさきで揺れた。
「あれ、と思って、手を当てても何にもないんです。」
「あの、此店《こちら》へおいでなさいました、今しがた……」
 
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