女房は頬をすぼめ、眉を寄せて、
「……まあ。」
「慌てて俥をとめましてね、上も下も見ましたけれど、別に何にもないんです。でも、可厭《いや》らしく、変に臭《にお》うようで、気味が悪くって、気味が悪くって。無理にも、何でもお願いしてと思っても、旅宿《やどや》でしょう、料理屋ですもの、両方とも。……お店の看板が「かし本」と見えました時は、ほんとうに、地獄で……血の池で……蓮《はす》の花を見たようでしたわ。いきなり冷水《おひや》を、とも言いかねましたけれど、そのうちに、永洗の、名もいいんですのね、『たそがれ』の島田に、むら雨のかかる処だの、上杉先生の、結構なお墨の色を見ましたら、実は、いくらかすっきりして来ましたんです。」
珊瑚碧樹の水茎は、清《すずし》く、その汚濁《おじょく》を洗ったのである。
「いつまでも、さっきのままですと、私はほんとうに、おいらんの心中ではないんですけど、死んでしまいたいほどでしたよ。」
大袈裟《おおげさ》なのを笑いもしない女房は、その路連《みちづれ》、半町|此方《てまえ》ぐらいには同感であったらしい
「ええええお易い事。まあ、ごじょうだんをおっしゃって、そんなお人がらな半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]を。……唯今、お手拭《てぬぐい》。」
茶の室《ま》へ入るうしろから、
「綿屑《わたくず》で結構よ。」
手拭をさえ惜しんだのは、余程《よっぽど》身に沁《し》みた不気味さに違いない。
女房は行《ゆ》きがけに、安手な京焼の赤湯呑を引攫《ひっさら》うと、ごぼごぼと、仰向《あおむ》くまで更《あらた》めて嗽《うがい》をしたが、俥で来たのなどは見た事もない、大事なお花客《とくい》である。たしない買水を惜気なく使った。――そうして半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]を畳みながら、行儀よく膝に両の手を重ねて待ったお嬢さんに、顔へ当てるように、膝を伸《のば》しざまに差出した。
「ほんとうに、あなた、蟆子《ぶよ》のたかりましたほどのあともございませんから、御安心遊ばせ。絞りかえて差上げましょう。――さようでございますか、フとしたお心持に、何か触ったのでございましょう。御気分は……」
「はい、お庇《かげ》で。」
「それにつけて、と申すのでもございませんけれど、そういえば、つい四五日前にも、同じ処で、おかしなことがあったんでございますの。ええ、本郷の大
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