接骨医《ほねつぎ》へ早く……」
「お怪我は?」
 与五郎野雪老人は、品ある顔をけろりとして、
「やあ、小児《こども》たち、笑わぬか、笑え、あはは、と笑え。爺《じい》が釣狐の舞台もの、ここへ運べば楽なものじゃ――我は化けたと思えども、人はいかに見るやらん。」
 と半眼に、従容《しょうよう》として口誦《こうじゅ》して、
「あれ、あの意気が大事じゃよ。」
 と、頭《こうべ》を垂れて、ハッと云って、俯向《うつむ》く背《せな》を、人目も恥じず、衝《つ》と抱いて、手巾《ハンカチ》も取りあえず、袖にはらはらと落涙したのは、世にも端麗《あでやか》なお町である。
「お手を取ります、お爺様《じいさま》、さ、私と一所に。」

       十四

 円《まる》に桔梗《ききょう》の紋を染めた、厳《いか》めしい馬乗提灯《うまのりぢょうちん》が、暗夜《くらやみ》にほのかに浮くと、これを捧げた手は、灯よりも白く、黒髪が艶々《つやつや》と映って、ほんのりと明《あかる》い顔は、お町である。
 と、眉に翳《かざ》すようにして、雪の頸《うなじ》を、やや打傾けて優しく見込む。提灯の前にすくすくと並んだのは、順に数の重なった朱塗《しゅぬり》の鳥居で、優しい姿を迎えたれば、あたかも紅《くれない》の色を染めた錦木《にしきぎ》の風情である。
 一方は灰汁《あく》のような卵塔場、他は漆《うるし》のごとき崖である。
 富士見の台なる、茶枳尼天《だきにてん》の広前で、いまお町が立った背後《うしろ》に、
 此《こ》の一廓《かく》、富士見稲荷鎮守の地につき、家々の畜犬堅く無用たるべきもの也《なり》。地主。
 と記した制札が見えよう。それからは家続きで、ちょうどお町の、あの家《うち》の背後《うしろ》に当る、が、その間に寺院《てら》のその墓地がある。突切《つッき》れば近いが、避《よ》けて来れば雷神坂の上まで、土塀を一廻りして、藪畳《やぶだたみ》の前を抜ける事になる。
 お町は片手に、盆の上に白い切《きれ》を掛けたのを、しなやかな羽織の袖に捧げていた。暗い中に、向うに、もう一つぼうと白いのは涎掛《よだれかけ》で、その中から目の釣った、尖《とが》った真蒼《まっさお》な顔の見えるのは、青石の御前立《おんまえだち》、この狐が昼も凄い。
 見込んで提灯が低くなって、裾が鳥居を潜《くぐ》ると、一体、聖心女学院の生徒で、昼は袴《はかま》を穿《は》く深い裾も――風情は萩の花で、鳥居もとに彼方《あなた》、此方《こなた》、露ながら明《あかる》く映って、友染《ゆうぜん》を捌《さば》くのが、内端《うちわ》な中に媚《なまめ》かしい。
 狐の顔が明先《あかりさき》にスッと来て近《ちかづ》くと、その背後《うしろ》へ、真黒《まっくろ》な格子が出て、下の石段に踞《うずくま》った法然《ほうねん》あたまは与五郎である。
 老人は、石の壇に、用意の毛布《けっと》を引束《ひったば》ねて敷いて、寂寞《ひっそり》として腰を据えつつ、両手を膝に端坐した。
「お爺様。」
 と云う、提灯の柄が賽銭箱《さいせんばこ》について、件《くだん》の青狐の像と、しなった背中合せにお町は老人の右へ行《ゆ》く。
「やあ、」
 もっての外元気の可《い》い声を掛けたが、それまで目を瞑《つぶ》っていたらしい、夢から覚めた面色《おももち》で、
「またしてもお見舞……令嬢《おあねえさま》、早や、それでは痛入《いたみい》る。――老人にお教へ下さると云うではなけれど、絵図面が事の起因《おこり》ゆえ、土地に縁があろうと思えば、もしや、この明神に念願を掛けたらば――と貴女《あなた》がお心付け下された。暗夜《やみよ》に燈火《ともしび》、大智識のお言葉じゃ。
 何か、わざと仔細《しさい》らしく、夜中にこれへ出ませいでもの事なれども、朝、昼、晩、日のあるうちは、令嬢《おあねえさま》のお目に留《とま》って、易からぬお心遣い、お見舞を受けまする。かつは親御様の前、別して御尊父に忍んで遊ばす姫御前《ひめごぜん》の御身《おんみ》に対し、別事あってならぬと存じ、御遠慮を申すによって、わざと夜陰を選んで参りますものを、何としてこの暗いに。これでは老人、身の置きどころを覚えませぬ。第一|唯今《ただいま》も申す親御様に、」
「いえ、母は、よく初手からの事を存じております。煩っておりませんと、もっと以前にどうにもしたいのでございますッて。ほんとうにお爺様、貴老《あなた》の御心労をお察し申して、母は蔭ながら泣いております。」
「ああ、勿体至極《もったいしごく》もござらん。その儀もかねてうけたまわり、老人心魂に徹しております。」
「私も一所に泣くんですわ。ほんとうに私の身体《からだ》で出来ます事でしたら、どうにもしてお上げ申したいんでございますよ。それこそね、あの、貴老《あなた》が遊ばす、お狂言の罠《わな》にかかるために、私の身体《からだ》を油でいためてでも差上げたいくらいに思うんですが……それはお察しなさいましよ。」
「言語道断」と与五郎は石段をずるりと辷《すべ》った。

       十五

「そして、別にお触《さわ》りはございませんの。おとしよりが、こんなに、まあ、御苦労を遊ばして。」
「いや、老人、胸が、むず痒《がゆ》うて、ただ身体《からだ》の震えまする外、ここに参ってからはまた格別一段の元気じゃ、身体《からだ》は決してお案じ下さりょう事はない。かえって何かの悟《さとり》を得ようと心嬉しいばかりでござる。が、御母堂様は。」
「母はね、お爺様、寝ましたきり、食が細って困るんです。」
「南無三宝《なむさんぽう》。」
「今夜は、ちと更けましてから、それでも蕎麦《そば》かきをして食べてみよう、とそう言いましてね、ちょうど父の在所から届きました新蕎麦の粉がありましたものですから、私が枕頭《まくらもと》で拵《こしら》えました。父は、あの一晩泊りにその在へ参って留守なのです。母とまた、お爺様、貴老《あなた》の事をそう申して……きっとお社《やしろ》においでなさるに違いない、内へお迎えをしたいんですけれど、ああ云った父の手前、留守ではなおさら不可《いけ》ません。」
「おおおお、いかにも。」
「蕎麦かきは暖《あたたま》ると申します。差上げたらば、と母と二人でそう申しましてね、あの、ここへ持って参りました。おかわりを添えてございますわ。お可厭《いや》でなくば召上って下さいましな。」
「や、蕎麦|掻《かき》を……されば匂う。来世は雁《かり》に生《うま》りょうとも、新蕎麦と河豚《ふぐ》は老人、生命《いのち》に掛けて好きでござる。そればかりは決して御辞儀申さぬぞ。林間に酒こそ暖めませぬが、大宮人《おおみやびと》の風流。」
 と露店でも開くがごとく、与五郎一廻りして毛布《けっと》を拡げて、石段の前の敷石に、しゃんと坐る、と居直った声が曇った。
 また魅せられたような、お町も、その端へ腰を下して、世帯ぶった手捌《てさば》きで、白いを取ったは布巾である。
 与五郎、盆を前に両手を支《つ》き、
「ああ、今夜唯今、与五郎芸人の身の冥加《みょうが》を覚えました。……ついては、新蕎麦の御祝儀に、爺《じい》が貴女に御伽《おとぎ》を話《もう》す。……われら覚えました狂言の中に、鬼瓦《おにがわら》と申すがあっての、至極初心なものなれども、これがなかなかの習事《ならいごと》じゃ。――まず都へ上って年を経て、やがて国許《くにもと》へ立帰る侍が、大路の棟の鬼瓦を視《なが》めて、故郷《さと》に残いて、月日を過ごいた、女房の顔を思出《おもいい》で、絶《たえ》て久しい可懐《なつかし》さに、あの鬼瓦がその顔に瓜二つじゃと申しての、声を放って泣くという――人は何とも思わねども、学問遊ばし利発な貴女じゃ、言わいでも分りましょう。絵なり、像《すがた》なり、天女、美女、よしや傾城《けいせい》の肖顔《にがお》にせい、美しい容色《きりょう》が肖《に》たと云うて、涙を流すならば仔細《しさい》ない。誰も泣きます。鬼瓦さながらでは、ソッとも、嘘にも泣けませぬ。
 泣け! 泣かぬか! 泣け、と云うて、先師匠が、老人を、月夜七晩、雨戸の外に夜あかしに立たせまして、その家の、棟の瓦を睨《にら》ませて、動くことさえさせませなんだ。
 十六夜《いざよい》の夜半でござった。師匠の御新造の思召《おぼしめし》とて、師匠の娘御が、ソッと忍んで、蕎麦、蕎麦かきを……」
 と言《ことば》が途絶え、膝に、しかと拳《こぶし》を当て、
「袖にかくして持ってござった。それを柿の樹の大《おおき》な葉の桐のような影で食べました。鬼瓦ではなけれども、その時に涙を流いて、やがて、立って、月を見れば、棟を見れば、鬼瓦を見れば、ほろほろと泣けました。
 さて、その娘が縁あって、われら宿の妻に罷成《まかりな》る、老人三十二歳の時。――あれは一昨年《おととし》果てました。老《おい》の身の杖柱、やがては家の芸のただ一|人《にん》の話|対手《あいて》、舞台で分別に及ばぬ時は、師の記念《かたみ》とも存じ、心腹を語ったに――いまは惜《おし》からぬ生命《いのち》と思い、世に亡い女房が遺言で、止《や》めい、と申す河豚を食べても、まだ死ねませぬは因果でござるよ。
 この度の釣狐も、首尾よく化澄《ばけす》まし、師匠の外聞、女房の追善とも思詰《おもいつ》めたに、式《かた》のごとき恥辱を取る。
 さて、申すまじき事なれども、せんだって計らずもおがみました、貴方《あなた》のお姿、お顔だちが、さてさて申すまじき事なれども、過去りました、あの、そのものに、いやいや貴女《あなた》、令嬢《おあねえさま》、貴女とは申すまい、親御でおわす母君が。いやいや……恐《おそれ》多い申すまい。……この蕎麦掻が、よう似ました。……
 やあ、雁《がん》が鳴きます。」
「おお、……雁《かり》が鳴く。」

 与五郎は、肩をせめて胸をわななかして、はらはらと落涙した。
「お爺様、さ、そして、懐炉《かいろ》をお入れなさいまし、懐中《ふところ》に私《わたくし》が暖めて参りました。母も胸へ着けましたよ。」
「ええ!」と思わず、皺手《しわで》をかけたは、真綿のようなお町の手。
「親御様へお心遣い……あまつさえ外道《げどう》のような老人へ御気扱《おきあつかい》、前《ぜん》お見上げ申したより、玉を削って、お顔にやつれが見えます。のう……これは何をお泣きなさる。」
「胸がせまって、ただ胸がせまって――お爺様、貴老《あなた》がおいとしゅうてなりません。しっかり抱いて上げたいわねえ。」と夜半《よなか》に莟《つぼ》む、この一輪の赤い花、露を傷《いた》んで萎《しお》れたのである。
 人は知るまい。世に不思議な、この二人の、毛布《けっと》にひしと寄添《よりそ》ったを、あの青い石の狐が、顔をぐるりと向けて、鼻で覗《のぞ》いた……
「これは……」
 老人は懐炉を取って頂く時、お町が襟を開くのに搦《から》んで落ちた、折本らしいものを見た。
「……町は基督《キリスト》教の学校へ行《ゆ》くんですが、お導き申したというお社だし、はじめがこの絵図から起ったのですから、これをしるしにお納め申して、同《おんな》じに願掛《がんかけ》をしてお上げなさいと、あの母がそう申します。……私もその心で、今夜持って参りましたよ。」
 与五郎野雪、これを聞くと、拳《こぶし》を握って、舞の構えに、正しく屹《きっ》と膝を立てて、
「むむ、いや、かさねがさね……たといキリシタンバテレンとは云え、お宗旨までは尋常事《ただごと》ではない。この事、その事。新蕎麦に月は射《さ》さぬが、暗《やみ》は、ものじゃ、冥土の女房に逢う思《おもい》。この燈火《あかり》は貴女の導き。やあ、絵図面をお展《ひら》き下され、老人思う所存が出来た!」
 と熟《じっ》と※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った、目の冴《さえ》は、勇士が剣《つるぎ》を撓《た》むるがごとく、袖を抱いてすッくと立つ、姿を絞って、じりじりと、絵図の面《おもて》に――捻向《ねじむ》く血相、暗い影が颯《さっ》と射《さ》して、線を描いた紙の上を、フッと抜け出した
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