。与五郎、鬼神相伝の秘術を見しょう。と思うのが汽車の和尚じゃ。この心を見物衆の重石《おもし》に置いて、呼吸《いき》を練り、気を鍛え、やがて、件《くだん》の白蔵主。
那須野ヶ原の古樹の杭《くい》に腰を掛け、三国伝来の妖狐《ようこ》を放って、殺生石の毒を浴《あび》せ、当番のワキ猟師、大沼善八を折伏《しゃくぶく》して、さて、ここでこそと、横須賀行の和尚の姿を、それ、髣髴《ほうふつ》して、舞台に顕《あらわ》す……しゃ、習《ならい》よ、芸よ、術よとて、胡麻《ごま》の油で揚げすまいた鼠の罠《わな》に狂いかかると、わっと云うのが可笑《おか》しさを囃《はや》すので、小児《こども》は一同、声を上げて哄《どつ》と笑う。華族の後室が抱いてござった狆《ちん》が吠《ほ》えないばかりですわ。
何と、それ狂言は、おかしいものには作したれども、この釣狐に限っては、人に笑わるべきものでない。
凄《すご》う、寂しゅう、可恐《おそろ》しげはさてないまでも、不気味でなければなりませぬ。何と!」
とせき込んで言ったと思うと、野雪老人は、がっくりと下駄を、腰に支《つ》いて、路傍《みちばた》へ膝を立てた。
「さればこそ、先《せん》、師匠をはじめ、前々に、故人がこの狂言をいたした時は、土間は野となり、一二の松は遠方《おちかた》の森となり、橋がかりは細流《せせらぎ》となり、見ぶつの男女は、草となり、木《こ》の葉となり、石となって、舞台ただ充満《いっぱい》の古狐、もっとも奇特《きどく》は、鼠の油のそれよりも、狐のにおいが芬《ぷん》といたいた……ものでござって、上手が占めた鼓に劣らず、声が、タンタンと響きました。
何事ぞ、この未熟、蒙昧《もうまい》、愚癡《ぐち》、無知のから白癡《たわけ》、二十五座の狐を見ても、小児たちは笑いませぬに。なあ、――
最早、生効《いきがい》も無いと存じながら、死んだ女房の遺言でも止《や》められぬ河豚《ふぐ》を食べても死ねませぬは、更に一度、来月はじめの舞台が有って、おのれ、この度こそ、と思う、未練ばかりの故でござる。
寝食も忘れまして……気落ちいたし、心|萎《な》え、身体《からだ》は疲れ衰えながら、執着《しゅうぢゃく》の一念ばかりは呪詛《のろい》の弓に毒の矢を番《つが》えましても、目が晦《くら》んで、的が見えず、芸道の暗《やみ》となって、老人、今は弱果《よわりは》てました。
時に蒼空《あおぞら》の澄渡《すみわた》った、」
と心激しくみひらけば、大なる瞳、屹《きっ》と仰ぎ、
「秋の雲、靉靆《あいたい》と、あの鵄《とび》たちまち孔雀《くじゃく》となって、その翼に召したりとも思うお姿、さながら夢枕にお立ちあるように思出しましたは、貴女《あなた》、令嬢様《おあねえさま》、貴女の事じゃ。」
お町は謹《つつしん》で袖を合せた。玉あたたかき顔《かんばせ》の優《やさし》い眉の曇ったのは、その黒髪の影である。
「老人、唯今の心地を申さば、炎天に頭《こうべ》を曝《さら》し、可恐《おそろし》い雲を一方の空に視《み》て、果てしもない、この野原を、足を焦《こが》し、手を焼いて、徘徊《さまよ》い歩行《ある》くと同然でござる。時に道を教えて下された、ああ、尊さ、嬉《うれし》さ、おん可懐《なつかし》さを存ずるにつけて……夜汽車の和尚の、室《へや》をぐるりと廻った姿も、同じ日の事なれば、令嬢《おあねえさま》の、袖口から、いや、その……あの、絵図面の中から、抜出《ぬけだ》しましたもののように思われてなりませぬ。
さように思えば、ここに、絵図面をお展《ひら》き下されて、貴女と二人立って見ましたは、およそ天《あま》ヶ下の芸道の、秘密の巻もの、奥許しの折紙を、お授け下されたおもい致す!
姫、神とも存ずる、令嬢《おあねえさま》。
分別の尽き、工夫に詰《つま》って、情《なさけ》なくも教《おしえ》を頂く師には先立たれましたる老耄《おいぼれ》。他《ほか》に縋《すが》ろうようがない。ただ、偏《ひとえ》に、令嬢様《おあねえさま》と思詰《おもいつ》めて、とぼとぼと夢見たように参りました。
が、但し、土地の、あの図に、何と秘密が有ろうとは存じませぬ。貴女の、お胸、お心に、お袖の裏《うち》に、何となく教《おしえ》が籠《こも》る、と心得まする。
何とぞ、貴女の、御身《おんみ》からいたいて、人に囃《はや》され、小児《こども》たちに笑われませぬ、白蔵王《はくぞうす》の法衣《ころも》のこなし、古狐の尾の真実の化方を御《おん》教えに預りたい……」
「これ、これ、いやさ、これ。」
「しばらく! さりとても、令嬢様《おあねえさま》、御年紀《おんとし》、またお髪《ぐし》の様子。」
娘は髪に手を当てた、が、容《かたち》づくるとは見えず、袖口の微《かすか》な紅《くれない》、腕《かいな》も端麗なものであった。
「舞、手踊、振、所作のおたしなみは格別、当世西洋の学問をこそ遊ばせ、能楽の間《あい》の狂言のお心得あろうとはかつて存ぜぬ。
あるいは、何かの因縁で、斯道《このみち》なにがしの名人のこぼれ種、不思議に咲いた花ならば、われらのためには優曇華《うどんげ》なれども、ちとそれは考え過ぎます。
それとも当時、新しいお学問の力をもってお導き下さりょうか。
さりとて痩《や》せたれども与五郎、科《しな》や、振《ふり》は習いませぬぞよ。師は心にある。目にある、胸にある……
近々とお姿を見、影を去って、跪《ひざまず》いて工夫がしたい! 折入ってお願いは、相叶《あいかな》うことならば、お台所の隅、お玄関の端になりとも、一七日《ひとなぬか》、二七日《ふたなぬか》、お差置きを願いたい。」
「本気か、これ、おい。」と家主が怒鳴った。
胸を打って、
「血判でござる。成らずば、御門、溝石の上になりとも、老人、腰掛に弁当を持参いたす。平に、この儀お聞済《ききずみ》が願いたい。
口惜《くちおし》や、われら、上根《じょうこん》ならば、この、これなる烏瓜|一顆《ひとつ》、ここに一目、令嬢《おあねえさま》を見ただけにて、秘事の悟《さとり》も開けましょうに、無念やな、老《おい》の眼《まなこ》の涙に曇るばかりにて、心の霧が晴れませぬ。
や、令嬢《おあねえさま》、お聞済。この通りでござる。」
とて、開いた扇子に手を支《つ》いた。埃《ほこり》は颯《さっ》と、名家の紋の橘《たちばな》の左右に散った。
思わず、ハッと吐息《といき》して、羽織の袖を、斉《ひとし》く清く土に敷く、お町の小腕《こがいな》、むずと取って、引立てて、
「馬鹿、狂人《きちがい》だ。此奴《こいつ》あ。おい、そんな事を取上げた日には、これ、この頃の画工《えかき》に頼まれたら、大切な娘の衣服《きもの》を脱いで、いやさ、素裸体《すッぱだか》にして見せねばならんわ。色情狂《いろきちがい》の、爺《じじい》の癖に。」
十三
「生蕎麦《きそば》、もりかけ二銭とある……場末の町じゃな。ははあ煮たて豌豆《えんどう》、古道具、古着の類《たぐい》。何じゃ、片仮名をもってキミョウニナオル丸《がん》、疝気寸白虫根切《せんきすばくのむしねきり》、となのった、……むむむむ疝気寸白は厭《いと》わぬが、愚鈍を根切りの薬はないか。
ここに、牛豚開店と見ゆる。見世《みせ》ものではない。こりゃ牛鋪《ぎゅうや》じゃ。が、店を開くは、さてめでたいぞ。
ほう、按腹鍼療《あんぷくしんりょう》、蒲生《がもう》鉄斎、蒲生鉄斎、はて達人ともある姓名じゃ。ああ、羨《うらやま》しい。おお、琴曲《きんきょく》教授。や、この町にいたいて、村雨松風の調べ。さて奥床《おくゆかし》い事のう。――べ、べ、べ、べッかッこ。」
と、ちょろりと舌を出して横舐《よこなめ》を、遣《や》ったのは、魚勘《うおかん》の小僧で、赤八、と云うが青い顔色《がんしょく》、岡持を振《ぶ》ら下げたなりで道草を食散らす。
三光町の裏小路、ごまごまとした中を、同じ場末の、麻布田島町へ続く、炭団《たどん》を干した薪屋《まきや》の露地で、下駄の歯入れがコツコツと行《や》るのを見ながら、二三人共同栓に集《あつま》った、かみさん一人、これを聞いて、
「何だい、その言種《いいぐさ》は、活動写真のかい、おい。」
「違わあ。へッ、違いますでござんやすだ。こりゃあ、雷神坂上の富士見の台の差配のお嬢さんに惚《ほ》れやあがってね。」
「ああ、あの別嬪《べっぴん》さんの。」
「そうよ、でね、其奴《そいつ》が、よぼよぼの爺《じじい》でね。」
「おや、へい。」
「色情狂《いろきちがい》で、おまけに狐憑《きつねつき》と来ていら。毎日のように、差配の家《うち》の前をうろついて附纏《つきまと》うんだ。昨日もね、門口の段に腰を掛けている処を、大《おおき》な旦那が襟首を持って引摺《ひきずり》出した。お嬢さんが縋《すが》りついて留めてたがね。へッ被成《なさる》もんだ、あの爺を庇《かば》う位なら、俺《おいら》の頬辺《ほっぺた》ぐらい指で突《つつ》いてくれるが可《い》い、と其奴が癪《しゃく》に障ったからよ。自転車を下りて見ていたんだが、爺の背中へ、足蹴《あしげ》に砂を打《ぶ》っかけて遁《に》げて来たんだ。
それ、そりゃ昨日の事だがね。串戯《じょうだん》じゃねえや。お嬢さんを張りに来るのに弁当を持ってやあがる、握飯の。」
「成程、変だ。」……歯入屋が言った。
「そうよ、其奴を、旦《だん》が踏潰《ふみつぶ》して怒ってると、そら、俺《おいら》を追掛《おっか》けやがる斑犬《ぶちいぬ》が、ぱくぱく食《くい》やがった、おかしかったい、それが昨日さ。」
「分ったよ、昨日は。」
「その前《めえ》もね、毎日だ。どこかで見掛ける。いつも雷神坂を下りて、この町内をとぼくさとぼくさ。その癖のん気よ。角の蕎麦屋から一軒々々、きょろりと見ちゃ、毎日おなじような独語《ひとりごと》を言わあ。」
「其奴が、(もりかけ二銭とある)だな、生意気だな、狂人《きちがい》の癖にしやあがって、(場末)だなんて吐《ぬか》しやがって。」と歯入屋が、おはむき[#「おはむき」に傍点]の世辞を云って、女房《かみさん》達をじろりと見る奴《やつ》。
「それからキミョウニナオル丸、牛豚開店までやりやがって、按摩《あんま》ン許《とこ》が蒲生鉄斎、たつじんだ、土瓶だとよ、薬罐《やかん》めえ、笑《わら》かしやがら。何か悪戯《いたずら》をしてやろうと思って、うしろへ附いちゃあ歩行《ある》くから、大概口上を覚えたぜ。今もね、そこへ来たんぜ。」
「来るえ。」と、一所に云う。
「見ねえ、一番、尻尾を出させる考えを着けたから、駈抜《かけぬ》けて先へ来たんだ。――そら、そら、来たい、あの爺だ――ね。」
と、琴曲の看板を見て、例のごとく、帽子も被《かぶ》らず、洋傘《こうもり》を支《つ》いて、据腰《すえごし》に与五郎老人、うかうかと通りかかる。
「あれ! 何をする。」
と言う間も無かった。……おしめも褌《ふんどし》も一所に掛けた、路地の物干棹《ものほしざお》を引《ひっ》ぱずすと、途端《みちばた》の与五郎の裾《すそ》を狙《ねら》って、青小僧、蹈出《ふみだ》す足と支《つ》く足の真中《まんなか》へスッと差した。はずみにかかって、あわれ与五郎、でんぐりかえしを打った時、
「や、」と倒れながら、激しい矢声《やごえ》を、掛けるが響くと、宙で撓《た》めて、とんぼを切って、ひらりと翻《かえ》った。古今の手練、透かさぬ早業《はやわざ》、頭《ず》を倒《さかさ》に、地には着かぬ、が、無慚《むざん》な老体、蹌踉《よろよろ》となって倒れる背を、側の向うの電信柱にはたとつける、と摺抜《すりぬ》けに支えもあえず、ぼったら焼の鍋《なべ》を敷いた、駄菓子屋の小店の前なる、縁台に※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と落つ。
走り寄ったは婦《おんな》ども。ばらばらと来たのは小児《こども》で。
鷺《さぎ》の森の稲荷《いなり》の前から、と、見て、手に薬瓶の紫を提げた、美しい若い娘が、袖の縞《しま》を乱して駈寄《かけよ》る。
「怪我《けが》は。」
「吉祥院前の
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