白金之絵図
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)一村雨《ひとむらさめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山田|守《も》る
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す
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一
片側は空も曇って、今にも一村雨《ひとむらさめ》来そうに見える、日中《ひなか》も薄暗い森続きに、畝《うね》り畝り遥々《はるばる》と黒い柵を繞《めぐ》らした火薬庫の裏通《うらどおり》、寂しい処《ところ》をとぼとぼと一人通る。
「はあ、これなればこそ可《よ》けれ、聞くも可恐《おそろ》しげな煙硝庫《えんしょうぐら》が、カラカラとして燥《はしゃ》いで、日が当っては大事じゃ。」
と世に疎《うと》そうな独言《ひとりごと》。
大分日焼けのした顔色で、帽子を被《かむ》らず、手拭《てぬぐい》を畳んで頭に載《の》せ、半開きの白扇を額に翳《かざ》した……一方雑樹交りに干潟《ひがた》のような広々とした畑《はた》がある。瓜《うり》は作らぬが近まわりに番小屋も見えず、稲が無ければ山田|守《も》る僧都《そうず》もおわさぬ。
雲から投出したような遣放《やりぱな》しの空地に、西へ廻った日の赤々と射《さ》す中に、大根の葉のかなたこなたに青々と伸びたを視《なが》めて、
「さて世はめでたい、豊年の秋じゃ、つまみ菜もこれ太根《ふとね》になったよ。」
と、一つ腰を伸《の》して、杖《つえ》がわりの繻子張《しゅすばり》の蝙蝠傘《こうもりがさ》の柄に、何の禁厭《まじない》やら烏瓜《からすうり》の真赤《まっか》な実、藍《あい》、萌黄《もえぎ》とも五つばかり、蔓《つる》ながらぶらりと提げて、コツンと支《つ》いて、面長で、人柄な、頤《あご》の細いのが、鼻の下をなお伸《のば》して、もう一息、兀《はげ》の頂辺《てっぺん》へ扇子を翳《かざ》して、
「いや、見失ってはならぬぞ、あの、緑青色《ろくしょういろ》した鳶《とび》が目当じゃ。」
で、白足袋に穿込《はきこ》んだ日和下駄《ひよりげた》、コトコトと歩行《ある》き出す。
年齢《とし》六十に余る、鼠と黒の万筋の袷《あわせ》に黒の三ツ紋の羽織、折目はきちんと正しいが、色のやや褪《あ》せたを着、焦茶の織ものの帯を胴ぶくれに、懐大きく、腰下りに締めた、顔は瘠《や》せた、が、目じしの落ちない、鼻筋の通ったお爺《じい》さん。
眼鏡《めがね》はありませんか。緑青色の鳶だと言う、それは聖心女子院とか称《とな》うる女学校の屋根に立った避雷針の矢の根である。
もっとも鳥居|数《かず》は潜《くぐ》っても、世智に長《た》けてはいそうにない。
ここに廻って来る途中、三光坂を上《あが》った処で、こう云って路《みち》を尋ねた……
「率爾《そつじ》ながら、ちとものを、ちとものを。」
問われたのは、ふらんねるの茶色なのに、白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》を締めた髭《ひげ》の有る人だから、事が手軽に行《ゆ》かない。――但し大きな海軍帽を仰向《あおむ》けに被《かぶ》せた二歳ぐらいの男の児《こ》を載せた乳母車を曳《ひ》いて、その坂路《さかみち》を横押《よこおし》に押してニタニタと笑いながら歩行《ある》いていたから、親子の情愛は御存じであろうけれども、他人に路を訊《き》かれて喜んで教えるような江戸児《えどっこ》ではない。
黙然《だんまり》で、眉と髭と、面中《つらじゅう》の威厳を緊張せしめる。
老人もう一倍腰を屈《かが》めて、
「えい、この辺に聖人と申す学校がござりまする筈《はず》で。」
「知らん。」と、苦い顔で極附《きめつ》けるように云った。
「はッ、これはこれは御無礼至極な儀を、実《まこと》に御歩《おみあし》を留めました。」
がたがたと下りかかる大八車を、ひょいと避けて、挨拶《あいさつ》に外した手拭も被らず、そのまま、とぼんと行《ゆ》く。頭《つむり》の法体《ほったい》に対しても、余り冷淡だったのが気の毒になったのか。
「ああ聖心女学校ではないのかい、それなら有ッじゃね。」
「や、女子《おなご》の学校?」
「そうですッ。そして聖人ではない、聖心、心《こころ》ですが。」
「いかさま、そうもござりましょう。実はせんだって通掛《とおりかか》りに見ました。聖、何とやらある故に、聖人と覚えました。いや、老人|粗忽《そこつ》千万。」
と照れたようにその頭をびたり……といった爺様《じいさま》なのである。
二
その女学校の門を通過ぎた処に、以前は草鞋《わらじ》でも振《ぶ》ら下げて売ったろう。葭簀張《よしずばり》ながら二坪ばかり囲《かこい》を取った茶店が一張《ひとはり》。片側に立樹の茂った空地の森を風情にして、如法《にょほう》の婆さんが煮ばなを商う。これは無くてはなるまい。あの、火薬庫を前途《まえ》にして目黒へ通う赤い道は、かかる秋の日も見るからに暑くるしく、並木の松が欲しそうであるから。
老人は通りがかりにこれを見ると、きちんと畳んだ手拭で額の汗を拭《ふ》きながら、端の方の床几《しょうぎ》に掛けた。
「御免なさいよ。」
「はいはい、結構なお日和《ひより》でございます。」
「されば……じゃが、歩行《ある》くにはちと陽気過ぎますの。」
と今時、珍しいまで躾《たしなみ》の可《い》い扇子を抜く。
「いえ、御隠居様、こうして日蔭に居《お》りましても汗が出ますでございますよ。何ぞ、シトロンかサイダアでもめしあがりますか。」と商売は馴《な》れたもの。
「いやいや、老人《としより》の冷水とやら申す、馴れた口です。お茶を下され。」
「はいはい。」
ちと横幅の広い、元気らしい婆さん。とぼけた手拭、片襷《かただすき》で、古ぼけた塗盆へ、ぐいと一つ形容の拭巾《ふきん》をくれつつ、
「おや、坊ちゃん、お嬢様。」と言う。
十一二の編《あみ》さげで、袖《そで》の長いのが、後《あと》について、七八ツのが森の下へ、兎《うさぎ》と色鳥ひらりと入った。葭簀|越《ごし》に、老人はこれを透かして、
「ああ、その森の中は通抜けが出来ますかの。」
「これは、余所《よそ》のお邸《やしき》様の持地《もちじ》でございまして、はい、いいえ、小児衆《こどもしゅ》は木の実を拾いに入りますのでございますよ。」
「出口に迷いはしませんかの、見受けた処、なかなかどうも、奥が深い。」
「もう口許《くちもと》だけでございます。で、ございますから、榎《えのき》の実に団栗《どんぐり》ぐらい拾いますので、ずっと中へ入りますれば、栗も椎《しい》もございますが、よくいたしたもので、そこまでは、可恐《こわ》がって、お幼《ちいさ》いのは、おいたが出来ないのでございます。」
「ははあいかにもの。」
と、飲んだ茶と一緒に、したたか感心して、
「これぞ、自然《おのずから》なる要害、樹の根の乱杭《らんぐい》、枝葉《えだは》の逆茂木《さかもぎ》とある……広大な空地じゃな。」
「隠居さん、一つお買いなすっちゃどうです。」
と唐突《だしぬけ》に云った。土方|体《てい》の半纏着《はんてんぎ》が一人、床几は奥にも空いたのに、婆さんの居る腰掛を小楯《こだて》に踞《しゃが》んで、梨の皮を剥《む》いていたのが、ぺろりと、白い横銜《よこぐわ》えに声を掛ける。
真顔に、熟《じっ》と肩を細く、膝頭《ひざがしら》に手を置いて、
「滅相もない事を。老人若い時に覚えがあります。今とてもじゃ、足腰が丈夫ならば、飛脚なと致いて通ってみたい。ああ、それもならず……」
と思入ったらしく歎息《ためいき》したので、成程、服装《みなり》とても秋日和の遊びと見えぬ。この老人《としより》の用ありそうな身過ぎのため、と見て取ると、半纏着は気を打って、悄気《しょげ》た顔をして、剥いて落した梨の皮をくるくると指に巻いて、つまらなく笑いながら、
「ははは、野原や、山路《やまみち》のような事を言ってなさらあ、ははは。」
「いやいや、まるで方角の知れぬ奥山へでも入ったようじゃ。昼日中|提灯《ちょうちん》でも松明《たいまつ》でも点《つ》けたらばと思う気がします。」
がっくりと俯向《うつむ》いて、
「頭《つむり》ばかりは光れども……」
つるりと撫《な》でた手、頸《ぼん》の窪《くぼ》。
「足許は暗《やみ》じゃが、のう。」と悄《しお》れた肩して膝ばかり、きちんと正しい扇を笏《しゃく》。
と、思わず釣込まれたようになって、二人とも何かそこへ落ちたように、きょろきょろと土間を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す。葭簀《よしず》の屋根に二葉三葉。森の影は床几に迫って、雲の白い蒼空《あおぞら》から、木《こ》の実が降って来たようであった。
三
半纏着は、急に日が蔭ったような足許《あしもと》から、目を上げて、兀《は》げた老人《としより》の頭《つむり》と、手に持った梨の実の白いのを見較べる。
婆さんが口を出して、
「御隠居様は御遠方でいらっしゃるのでございますか。」
「下谷《したや》じゃ。」
「そいつあ遠いや、電車でも御大抵じゃねえ。へい、そしてどちらへお越しになるんで。」
「いささかこの辺《あたり》へ用事があっての。当年たった一度、極暑《ごくしょ》の砌《みぎり》参ったばかり、一向に覚束《おぼつか》ない。その節通りがかりに見ました、大《おおき》な学校を当《あて》にいたした処、唯今《ただいま》立寄って見れば門が違うた。」
腕を伸《のば》して、来た方を指《ゆびさ》すと共に、斉《ひとし》く扇子を膝に支《つ》いて身体《からだ》ごと向直る……それにさえ一息して、
「それは表門でござった……坂も広い。私が覚えたのは、もそっと道が狭うて、急な上坂《のぼりざか》の中途の処、煉瓦塀《れんがべい》が火のように赤う見えた。片側は一面な野の草で、蒸《いき》れの可恐《おそろし》い処でありましたよ。」
「それは裏門でございますよ。道理こそ、この森を抜けられまいか、とお尋ねなさった、お目当は違いませぬ。森の中から背面《うしろ》の大畠《おおばたけ》が抜けられますと道は近うございますけれども、空地でもそれが出来ませんので、これから、ずっと煙硝庫《えんしょうぐら》の黒塀について、上《のぼ》ったり、下《くだ》ったり、大廻りをなさらなければなりませぬ。何でございますか、女学校に御用事はございませんか。それだと表門でも用は足りましょうでござりますよ。」と婆さんは一度掛けた腰掛をまた立って、森を覗《のぞ》いたり、通《とおり》を視《み》たり。
「いやいや、そこを目当に、別に尋ねます処があります。」
「ちゃんとわかっているんですかい、おいでなさる先方《さき》ってのは。こう寂しくって疎在《まばら》でね、家《うち》の分りにくい処ですぜ。」と、煙草《たばこ》盆は有るものを、口許で燐寸《マッチ》を※[#「火+發」、301−2]《ぱっ》、と目を細うして仰向《あおむ》いて、半分消しておいた煙草をつける。
「余り確かでもないのでの。また家は分るにしてもじゃ。」
と扇子を倒すのと、片膝力なく叩くのと、打傾くのがほとんど一緒で、
「仔細《しさい》なく当方の願が届くかどうかの、さて、」
と沈む……近頃見附けた縁類へ、無心合力にでも行《ゆ》きそうに聞えて、
「何せい、煙硝庫と聞いたばかりでも、清水が湧《わ》くようではない。ちと更《あらた》まっては出たれども、また一つ山を越すのじゃ、御免を被《こうむ》る。一度羽織を脱いで参ろう。ああ、いやお婆さん、それには及ばぬ。」
紋着《もんつき》の羽織を脱いだのを、本畳みに、スーッスーッと襟を伸《の》して、ひらりと焦茶の紐《ひも》を捌《さば》いて、縺《もつ》れたように手を控え、
「扮装《いでたち》ばかり凜々《りり》しいが、足許はやっぱり暗夜《やみ》じゃの。」と裾《すそ》も暗いように、また陰気。
半纏着は腕組して、
「まったく、足許が悪いんですかい、負《おぶ》っ
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