て行《ゆ》く事もならねえしと……隠居さん、提灯《ちょうちん》でも上げてえようだ。」
「夜だとほんとうにお貸し申すんだがねえ。」
「どうですえ、その森ン中の暗い枝に、烏瓜ッてやつが点《とも》っていまさあ。真紅《まっか》なのは提灯みたいだ。ねえ、持っておいでなさらねえか、何かの禁厭《おまじない》になろうも知れませんや。」
「はあ、烏瓜の提灯か。」
目を瞑《つむ》って、
「それも一段の趣じゃが、まだ持って出たという験《ためし》を聞かぬ。」と羽織を脱いでなお痩《や》せた二の腕を扇子で擦《さす》る。
四
「凍傷《しもやけ》の薬を売ってお歩行《ある》きなさりはしまいし、人。」
と婆さんは、老いたる客の真面目なのを気の毒らしく、半纏着の背中を立身《たちみ》で圧《おさ》えて、
「可《い》い加減な、前例《ためし》にも禁厭《まじない》にも、烏瓜の提灯《ちょうちん》だなんぞと云って、狐が点《とぼ》すようじゃないかね。」
「狐が点す……何。」
と顔を蔽《おお》うた皺《しわ》を払って、雲の晴れた目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る、と水を切った光が添った。
「何、狐が点すか。面白い。」
扇子を颯《さっ》と胸に開くと、懐中《ふところ》を広く身を正して、
「どれ、どこに……おお、あの葉がくれに点《とぼ》れて紅《あか》いわ。お職人、いい事を云って下さった。どれ一つぶら下げて参るとします。」
「ああ、隠居さん、気に入ったら私《わっし》が引《ひっ》ちぎって持って来らあ。……串戯《じょうだん》にゃ言ったからって、お年寄《としより》のために働くんだ。先祖代々、これにばかりは叱言《こごと》を言うめえ、どっこい。」と立つ。
老人《としより》は肩を揉《も》んで、頭《こうべ》を下げ、
「これは何ともお手を頂く。」
「何の、隠居さん、なあ、おっかあ、今日は父親《おやじ》の命日よ。」
と、葭簀《よしず》を出る、と入違いに境界の柵の弛《ゆる》んだ鋼線《はりがね》を跨《また》ぐ時、莨《たばこ》を勢《いきおい》よく、ポンと投げて、裏つきの破《やぶれ》足袋、ずしッと草を踏んだ。
紅いその実は高かった。
音が、かさかさと此方《こなた》に響いて、樹を抱いた半纏は、梨子《なし》を食った獣《けもの》のごとく、向顱巻《むこうはちまき》で葉を分ける。
「気を付きょうぞ。少《わか》い人、落ちまい……」と伸上る。
「大丈夫でございますよ。電信柱の突尖《とっさき》へ腰を掛ける人でございますからね。」
「むむ、侠勇《いさみ》じゃな……杖とも柱とも思うぞ、老人、その狐の提灯で道を照《てら》す……」
「可厭《いや》ではございませんかね、この真昼間《まっぴるま》。」
「そこが縁起じゃ、禁厭《まじない》とも言うのじゃよ、金烏玉兎《きんうぎょくと》と聞くは――この赫々《あかあか》とした日輪の中には三脚の鴉《からす》が棲《す》むと言うげな、日中《ひなか》の道を照す、老人が、暗い心の補助《おぎない》に、烏瓜の灯《ともしび》は天の与えと心得る。難有《ありがた》い。」と掌《たなそこ》を額に翳《かざ》す。
婆さんは希有《けう》な顔して、
「でも、狐火《きつねび》か何ぞのようで、薄気味が悪いようでございますね。」
「成程、……狐火、……それは耳より。ふん……かほどの森じゃ、狐も居《お》ろうかの。」
「ええ、で、ございますのでね、……居りますよ。」
「見たか。」
「前《ぜん》には、それは見たこともございますとも。」
老人これを聞くと腰を入れて、
「ああ、たのもしい。」
「ええ……」
と退《しさ》った、今のその……たのもしい老人の声の力に圧《お》されたのである。
「さて、鳴くか。」
「へい?……」
「やはりその、」
と張肱《はりひじ》になった呼吸《いき》を胸に、下腹《したはら》を、ずん、と据えると、
「カーン! というて?」
どさりと樹から下りた音。瓜がぶらり、赤く宙に動いて、カラカラと森に響く。
婆さんの顔を見よ。
半纏着が飛んで帰って、同じくきょとつく目を合せた。
「驚いた……烏が一斉《いっとき》に飛びやあがった。何だい、今の、あの声は。……烏瓜を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《もぎ》っただけで下りりゃ可《い》いのに、何だかこう、樹の枝に、茸《きのこ》があったもんだから。」
五
「これ、これ、いやさ、これ。」
「はあ、お呼びなされたは私《てまえ》の事で。」
と、羽織の紐を、両手で結びながら答えたのは先刻《さっき》の老人。一方|青煉瓦《あおれんが》の、それは女学校。片側波を打った[#「打った」は底本では「打つた」]亜鉛塀《トタンべい》に、ボヘミヤ人の数珠のごとく、烏瓜を引掛《ひっか》けた、件《くだん》の繻子張《しゅすばり》を凭《もた》せながら、畳んで懐中《ふところ》に入れていた、その羽織を引出して、今着直した処なのである。
また妙な処で御装束。
雷神山の急昇りな坂を上《あが》って、一畝《ひとうね》り、町裏の路地の隅、およそ礫川《こいしかわ》の工廠《こうしょう》ぐらいは空地《くうち》を取って、周囲《ぐるり》はまだも広かろう。町も世界も離れたような、一廓《ひとくるわ》の蒼空《あおぞら》に、老人がいわゆる緑青色の鳶《とび》の舞う聖心女学院、西暦を算して紀元幾千年めかに相当する時、その一部分が武蔵野の丘に開いた新開の町の一部分に接触するのは、ただここばかりかも知れぬ。外廓《がいかく》のその煉瓦と、角邸《かどやしき》の亜鉛塀とが向合って、道の幅がぎしりと狭い。
さて、その青鳶《あおとび》も樹に留《とま》った体《てい》に、四階造《しかいづくり》の窓硝子《まどがらす》の上から順々、日射《ひざし》に晃々《きらきら》と数えられて、仰ぐと避雷針が真上に見える。
この突当りの片隅が、学校の通用門で、それから、ものの半町程、両側の家邸。いずれも雑樹林や、畑《はた》を抱く。この荒地《あれち》の、まばら垣と向合ったのが、火薬庫の長々とした塀になる。――人通りも何にも無い。地図の上へ鉛筆で楽書《らくがき》したも同然な道である。
そこを――三光坂上の葭簀張《よしずばり》を出た――この老人はうら枯《がれ》を摘んだ籠《かご》をただ一人で手に提げつつ、曠野《あらの》の路を辿《たど》るがごとく、烏瓜のぽっちりと赤いのを、蝙蝠傘《こうもりがさ》に搦《から》めて支《つ》いて、青い鳶を目的《めあて》に、扇で日を避け、日和下駄を踏んで、大廻りに、まずその寂しい町へ入って来たのであった。
いや、火薬庫の暗い森を背中から離すと、邸構えの寂しい町も、桜の落葉に日が燃えて、梅の枝にほんのりと薄綿の霧が薫る……百日紅《さるすべり》の枯れながら、二つ三つ咲残ったのも、何となく思出《おもいで》の暑さを見せて、世はまださして秋の末でもなさそうに心強い。
そこをあちこち、覗《のぞ》いたり、視《み》たり、立留《たちどま》ったり、考えたり、庭前《にわさき》、垣根、格子の中。
「はてな。」
屋の棟を仰いだり、後退《あとずさ》りをまたしてみたり。
「確《たしか》に……」
歩行《あるき》出して、
「いや、待てよ……」
と首を窘《すく》めて、こそこそと立退《たちの》いたのは、日当りの可《い》い出窓の前で。
「違うかの。」と独言《ひとりごと》。変に、跫音《あしおと》を忍ぶ形で、そのまま通過ぎると、女学校のその通用門を正面《まとも》に見た。
「このあたり……ああ緑青色の鳶じゃ、待て、待て、念のためよ。」
あの、輝くのは目ではないか、もし、それだと、一伸《ひとの》しに攫《さら》って持って行《ゆ》かれよう。金魚の木伊乃《みいら》に似たるもの、狐の提灯、烏瓜を、更《あらた》めて、蝙蝠傘の柄ぐるみ、ちょうと腕長に前へ突出し、
「迷うまいぞ、迷うな。」
と云い云い……(これ、これ、いやさ、これ。……)ここに言咎《いいとが》められている処は、いましがた一度通ったのである。
そこを通って、両方の塀の間を、鈍い稲妻形に畝《うね》って、狭い四角《よつかど》から坂の上へ、にょい、と皺面《しわづら》を出した……
坂下の下界の住人は驚いたろう。山の爺《おじ》が雲から覗《のぞ》く。眼界|濶然《かつぜん》として目黒に豁《ひら》け、大崎に伸び、伊皿子《いさらご》かけて一渡り麻布《あざぶ》を望む。烏は鴎《かもめ》が浮いたよう、遠近《おちこち》の森は晴れた島、目近《まぢか》き雷神の一本の大栂《おおとが》の、旗のごとく、剣《つるぎ》のごとく聳《そび》えたのは、巨船天を摩す柱に似て、屋根の浪の風なきに、泡の沫《しぶき》か、白い小菊が、ちらちらと日に輝く。白金《しろがね》の草は深けれども、君が住居《すまい》と思えばよしや、玉の台《うてな》は富士である。
六
「相違《ちがい》ない、これじゃ。」
あの怪しげな烏瓜を、坂の上の藪《やぶ》から提灯、逆上《のぼ》せるほどな日向《ひなた》に突出す、痩《や》せた頬の片靨《かたえくぼ》は気味が悪い。
そこで、坂を下りるのかと思うと、違った。……老人は、すぐに身体《からだ》ごと、ぐるりと下駄を返して、元の塀についてまた戻る……さては先日、極暑の折を上ったというこの坂で、心当りを確《たしか》めたものであろう。とすると、狙《ねらい》をつけつつ、こそこそと退《の》いてござったあの町中《まちなか》の出窓などが、老人の目的《めあて》ではないか。
裏《うち》に、眉のあとの美しい、色白なのが居ようも知れぬ。
それ、うそうそとまた参った……一度|屈腰《かがみごし》になって、静《そっ》と火薬庫の方へ通抜けて、隣邸の冠木門《かぶきもん》を覗《のぞ》く梅ヶ枝の影に縋《すが》って留《とま》ると、件《くだん》の出窓に、鼻の下を伸《のば》して立ったが、眉をくしゃくしゃと目を瞑《ねむ》って、首を振って、とぼとぼと引返して、さあらぬ垣越。百日紅《さるすべり》の燃残《もえのこ》りを、真向《まっこう》に仰いで、日影を吸うと、出損なった嚔《くさめ》をウッと吸って、扇子の隙なく袖を圧《おさ》える。
そのまま、立直って、徐々《そろそろ》と、も一度戻って、五段ばかり石を築《つ》いた小高い格子戸の前を行過ぎた。が溝《どぶ》はなしに柵を一小間《ひとこま》、ここに南天の実が赤く、根にさふらん[#「さふらん」に傍点]の花が芬《ぷん》と薫るのと並んで、その出窓があって、窓硝子《まどがらす》の上へ真白《まっしろ》に塗った鉄《かね》の格子、まだ色づかない、蔦《つた》の葉が桟に縋って廂《ひさし》に這《は》う。
思わず、そこへ、日向にのぼせた赤い顔の皺面《しわづら》で、鼻筋の通ったのを、まともに、伸《のし》かかって、ハタと着《つ》ける、と、颯《さっ》と映るは真紅の肱附《ひじつき》。牡丹《ぼたん》たちまち驚いて飜《ひるがえ》れば、花弁《はなびら》から、はっと分れて、向うへ飛んだは蝴蝶《ちょうちょう》のような白い顔、襟の浅葱《あさぎ》の洩《も》れたのも、空が映って美しい。
老人転倒せまい事か。――やあ、緑青色の夥間《なかま》に恥《は》じよ、染殿《そめどの》の御后《おんきさい》を垣間《かいま》見た、天狗《てんぐ》が通力を失って、羽の折れた鵄《とび》となって都大路にふたふたと羽搏《はう》ったごとく……慌《あわただ》しい遁《に》げ方して、通用門から、どたりと廻る。とやっとそこで、吻《ほっ》と息。
ちょうどその時、通用門にひったりと附着《くッつ》いて、後背《うしろ》むきに立った男が二人居た。一人は、小倉《こくら》の袴《はかま》、絣《かすり》の衣服《きもの》、羽織を着ず。一人は霜降《しもふり》の背広を着たのが、ふり向いて同じように、じろりと此方《こなた》を見たばかり。道端《みちばた》の事、とあえて意《こころ》にも留めない様子で、同じように爪《つま》さきを刻んでいると、空の鵄が暗号《あいず》でもしたらしい、一枚びらき馬蹄形《ばていがた》の重い扉《と》が、長閑《のどか》な小春に、ズンと響くと、がらがらぎいと鎖で開《
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