《せん》、師匠をはじめ、前々に、故人がこの狂言をいたした時は、土間は野となり、一二の松は遠方《おちかた》の森となり、橋がかりは細流《せせらぎ》となり、見ぶつの男女は、草となり、木《こ》の葉となり、石となって、舞台ただ充満《いっぱい》の古狐、もっとも奇特《きどく》は、鼠の油のそれよりも、狐のにおいが芬《ぷん》といたいた……ものでござって、上手が占めた鼓に劣らず、声が、タンタンと響きました。
 何事ぞ、この未熟、蒙昧《もうまい》、愚癡《ぐち》、無知のから白癡《たわけ》、二十五座の狐を見ても、小児たちは笑いませぬに。なあ、――
 最早、生効《いきがい》も無いと存じながら、死んだ女房の遺言でも止《や》められぬ河豚《ふぐ》を食べても死ねませぬは、更に一度、来月はじめの舞台が有って、おのれ、この度こそ、と思う、未練ばかりの故でござる。
 寝食も忘れまして……気落ちいたし、心|萎《な》え、身体《からだ》は疲れ衰えながら、執着《しゅうぢゃく》の一念ばかりは呪詛《のろい》の弓に毒の矢を番《つが》えましても、目が晦《くら》んで、的が見えず、芸道の暗《やみ》となって、老人、今は弱果《よわりは》てました。
 
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