さい、これで失礼しよう。」
「あ、もし。さて、また。」
「何だ、また(さて。)さて、(また。)かい。」

       十

 与五郎は、早や懐手をぶりりと揺《ゆす》って行こうとする、家主に、縋《すが》るがごとく手を指して、
「さて……や、これはまたお耳障り。いや就きまして……令嬢《おあねえさま》に折入ってお願いの儀が有りまして、幾重にも御遠慮は申しながら、辛抱に堪えかねて罷出《まかりで》ました。
 次第《わけ》と申すは、余の事、別儀でもござりませぬ。
 老人、あの当時、……されば後月《あとつき》、九月の上旬。上野辺のある舞台において、初番に間狂言《あいきょうげん》、那須《なす》の語《かたり》。本役には釣狐《つりぎつね》のシテ、白蔵主《はくぞうす》を致しまする筈《はず》。……で、これは、当流においても許しもの、易からぬ重い芸でありましての、われら同志においても、一代の間に指を折るほども相勤めませぬ。
 近頃、お能の方は旭影《あさひかげ》、輝く勢《いきおい》。情《なさけ》なや残念なこの狂言は、役人《やくしゃ》も白日の星でござって、やがて日も入り暗夜《やみよ》の始末。しかるに思召しの深い方
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