「さて、その時の御深切、老人心魂に徹しまして、寝食ともに忘れませぬ。千万|忝《かたじけの》う存じまするぞ。」
「まあ。」
と娘は、またたきもしなかった目を、まつげ深く衝《つ》と見伏せる。
この狂人《きちがい》は、突飛ばされず、打てもせず、あしらいかねた顔色《がんしょく》で、家主は不承々々に中山高の庇《ひさし》を、堅いから、こつんこつんこつんと弾《はじ》く。
「解りました、何、そのくらいな事を。いやさ、しかし、早い話が、お前さん、ああ、何とか云った、与五郎さんかね。その狂言師のお前さんが、内の娘に三光町の地図で道を教えてもらったとこう云うのだ。」
「で、その道を教えて下さったに……就きまして、」
「まあさ、……いやさ、分ったよ。早い話が、その礼を言いに来たんだ、礼を。……何さ、それにも及ぶまいに、下谷御徒士町、遠方だ、御苦労です。早い話が、わざわざおいでなすったんで、茶でも進ぜたい、進ぜたい、が、早い話が、家内に取込みがある、妻《さい》が煩うとる。」
「いや、まことに、それは……」
「まあさ、余りお饒舌《しゃべり》なさらんが可《い》い。ね、だによって、お構いも申されぬ。で、お引取な
前へ
次へ
全62ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング