らしったかと思ったんです。」
 と、見迎えて一足|退《の》いて、亜鉛塀《トタンべい》に背の附くまで、ほとんど固くなった与五郎は、たちまち得も言われない嬉しげな、まぶしらしい、そして懐しそうな顔をして、
「や、や、や、貴女《あなた》、貴女じゃった、貴女。」と袖を開き、胸を曳《ひ》いて、縋《すが》りもつかんず、しかも押戴《おしいただ》かんず風情である。
 疑《うたがい》と、驚きに、浅葱が細《こまか》く、揺るるがごとく、父の家主の袖を覗いて、※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った瞳は玲瓏《れいろう》として清《すず》しい。
 家主は、かたいやつを、誇らしげにスポンと被《かむ》って、腕組をずばりとしながら、
「何かい、……この老人《とりより》を、お町、お前知っとるかい。」
「はい。」
 と云うのが含み声、優しく爽《さわやか》に聞えたが、ちと覚束《おぼつか》なさそうな響《ひびき》が籠《こも》った。
「ああ、しばらく、一旦の御見、路傍《みちばた》の老耄《おいぼれ》です。令嬢《おあねえさま》、お見忘れは道理《もっとも》じゃ。もし、これ、この夏、八月の下旬、彼これ八ツ下り四時頃と覚えます
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