いとは何だ、やい。」
「これは早や思いも寄りませぬ。が、何かの、この八百半と云うのは、お身の身内かの。」
「そうよ、まずい八百半の番頭だい、こン爺い。」
 と評判の悪垂《あくたれ》が、いいざまに、ひょいと歯を剥《む》いて唾《つば》を吐くと、べッとりと袖へ。これが熨斗目《のしめ》ともありそうな、柔和な人品穏かに、
「私《わし》は楽書はせぬけれどの、まずいと云うのを決して怒るな、これ、まずければ、私と親類じゃでのう。」
「何だ、まずいのが親類だ――ええ、畜生!」と云った。が、老人の事ではない。前生《ぜんしょう》の仇《あだ》が犬になって、あとをつけて追って来た、面《つら》の長い白斑《しろぶち》で、やにわに胴を地に摺《す》って、尻尾を巻いて吠《ほ》えかかる。
「畜生、叱《しッ》……畜生。」と拳《こぶし》を揮廻《ふりまわ》すのが棄鞭《すてむち》で、把手《ハンドル》にしがみついて、さすがの悪垂|真俯向《まうつむ》けになって邸町へ敗走に及ぶのを、斑犬《ぶち》は波を打って颯《さっ》と追った。
 老人は、手拭で引摺って袖を拭きつつ、見送って、
「……緑樹影沈んでは魚《うお》樹に上る景色あり、月海上に浮《
前へ 次へ
全62ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング