《わな》にかかるために、私の身体《からだ》を油でいためてでも差上げたいくらいに思うんですが……それはお察しなさいましよ。」
「言語道断」と与五郎は石段をずるりと辷《すべ》った。

       十五

「そして、別にお触《さわ》りはございませんの。おとしよりが、こんなに、まあ、御苦労を遊ばして。」
「いや、老人、胸が、むず痒《がゆ》うて、ただ身体《からだ》の震えまする外、ここに参ってからはまた格別一段の元気じゃ、身体《からだ》は決してお案じ下さりょう事はない。かえって何かの悟《さとり》を得ようと心嬉しいばかりでござる。が、御母堂様は。」
「母はね、お爺様、寝ましたきり、食が細って困るんです。」
「南無三宝《なむさんぽう》。」
「今夜は、ちと更けましてから、それでも蕎麦《そば》かきをして食べてみよう、とそう言いましてね、ちょうど父の在所から届きました新蕎麦の粉がありましたものですから、私が枕頭《まくらもと》で拵《こしら》えました。父は、あの一晩泊りにその在へ参って留守なのです。母とまた、お爺様、貴老《あなた》の事をそう申して……きっとお社《やしろ》においでなさるに違いない、内へお迎えをしたいんですけれど、ああ云った父の手前、留守ではなおさら不可《いけ》ません。」
「おおおお、いかにも。」
「蕎麦かきは暖《あたたま》ると申します。差上げたらば、と母と二人でそう申しましてね、あの、ここへ持って参りました。おかわりを添えてございますわ。お可厭《いや》でなくば召上って下さいましな。」
「や、蕎麦|掻《かき》を……されば匂う。来世は雁《かり》に生《うま》りょうとも、新蕎麦と河豚《ふぐ》は老人、生命《いのち》に掛けて好きでござる。そればかりは決して御辞儀申さぬぞ。林間に酒こそ暖めませぬが、大宮人《おおみやびと》の風流。」
 と露店でも開くがごとく、与五郎一廻りして毛布《けっと》を拡げて、石段の前の敷石に、しゃんと坐る、と居直った声が曇った。
 また魅せられたような、お町も、その端へ腰を下して、世帯ぶった手捌《てさば》きで、白いを取ったは布巾である。
 与五郎、盆を前に両手を支《つ》き、
「ああ、今夜唯今、与五郎芸人の身の冥加《みょうが》を覚えました。……ついては、新蕎麦の御祝儀に、爺《じい》が貴女に御伽《おとぎ》を話《もう》す。……われら覚えました狂言の中に、鬼瓦《おにがわら》と
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