御仁とも見受けはせんが、まあね、この陽気だから落着くが可《よ》うござす。一体、何の用なんだい。」
「いや、それに就いて罷出《まかりで》ました……無面目に、お家を窺《うかが》い、御叱《おしかり》を蒙ったで、恐縮いたすにつけても、前後|申後《もうしおく》れましてござるが、老人は下谷|御徒士町《おかちまち》に借宅します、萩原与五郎と申して未熟な狂言師でござる。」と名告《なの》る。
「ははあ、茶番かね。」と言った。
 しかり、茶番である。が、ここに名告るは惜《おし》かりし。与五郎老人は、野雪《やせつ》と号して、鷺流名誉の耆宿《きしゅく》なのである。
「おお、父上《おとうさん》、こんな処に。」
「お町か、何だ。」
 と赭《あか》ら顔の家主が云った。
 小春の雲の、あの青鳶《あおとび》も、この人のために方角《むき》を替えよ。姿も風采《なり》も鶴に似て、清楚《せいそ》と、端正を兼備えた。襟の浅葱《あさぎ》と、薄紅梅。瞼《まぶた》もほんのりと日南《ひなた》の面影。
 手にした帽子の中山高《ちゅうやまたか》を、家主の袖に差寄せながら、
「帽子をお被《かぶ》んなさいましッて、お母さんが。……裏へ見廻りにいらしったかと思ったんです。」
 と、見迎えて一足|退《の》いて、亜鉛塀《トタンべい》に背の附くまで、ほとんど固くなった与五郎は、たちまち得も言われない嬉しげな、まぶしらしい、そして懐しそうな顔をして、
「や、や、や、貴女《あなた》、貴女じゃった、貴女。」と袖を開き、胸を曳《ひ》いて、縋《すが》りもつかんず、しかも押戴《おしいただ》かんず風情である。
 疑《うたがい》と、驚きに、浅葱が細《こまか》く、揺るるがごとく、父の家主の袖を覗いて、※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った瞳は玲瓏《れいろう》として清《すず》しい。
 家主は、かたいやつを、誇らしげにスポンと被《かむ》って、腕組をずばりとしながら、
「何かい、……この老人《とりより》を、お町、お前知っとるかい。」
「はい。」
 と云うのが含み声、優しく爽《さわやか》に聞えたが、ちと覚束《おぼつか》なさそうな響《ひびき》が籠《こも》った。
「ああ、しばらく、一旦の御見、路傍《みちばた》の老耄《おいぼれ》です。令嬢《おあねえさま》、お見忘れは道理《もっとも》じゃ。もし、これ、この夏、八月の下旬、彼これ八ツ下り四時頃と覚えます
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