いとは何だ、やい。」
「これは早や思いも寄りませぬ。が、何かの、この八百半と云うのは、お身の身内かの。」
「そうよ、まずい八百半の番頭だい、こン爺い。」
 と評判の悪垂《あくたれ》が、いいざまに、ひょいと歯を剥《む》いて唾《つば》を吐くと、べッとりと袖へ。これが熨斗目《のしめ》ともありそうな、柔和な人品穏かに、
「私《わし》は楽書はせぬけれどの、まずいと云うのを決して怒るな、これ、まずければ、私と親類じゃでのう。」
「何だ、まずいのが親類だ――ええ、畜生!」と云った。が、老人の事ではない。前生《ぜんしょう》の仇《あだ》が犬になって、あとをつけて追って来た、面《つら》の長い白斑《しろぶち》で、やにわに胴を地に摺《す》って、尻尾を巻いて吠《ほ》えかかる。
「畜生、叱《しッ》……畜生。」と拳《こぶし》を揮廻《ふりまわ》すのが棄鞭《すてむち》で、把手《ハンドル》にしがみついて、さすがの悪垂|真俯向《まうつむ》けになって邸町へ敗走に及ぶのを、斑犬《ぶち》は波を打って颯《さっ》と追った。
 老人は、手拭で引摺って袖を拭きつつ、見送って、
「……緑樹影沈んでは魚《うお》樹に上る景色あり、月海上に浮《うか》んでは兎も波を走るか、……いやいや、面白い事はない。」
 で、羽織を出して着たのであった。
 頸窪《ぼんのくぼ》に胡摩塩斑《ごましおまだら》で、赤|禿《は》げに額の抜けた、面《つら》に、てらてらと沢《つや》があって、でっぷりと肥った、が、小鼻の皺《しわ》のだらりと深い。引捻《ひんねじ》れた唇の、五十余りの大柄な漢《おとこ》が、酒焼《さけやけ》の胸を露出《あらわ》に、べろりと兵児帯《へこおび》。琉球|擬《まが》いの羽織を被《き》たが、引《ひっ》かけざまに出て来たか、羽織のその襟が折れず、肩をだらしなく両方を懐手《ふところで》で、ぎくり、と曲角から睨《にら》んで出た、(これこれ、いやさ、これ。)が、これなのである。
「何ぞ、老人に用の儀でも。」
 と慇懃《いんぎん》に会釈する。
 赭顔《あからがお》は、でっぷりとした頬を張って、
「いやさ、用とはこっちから云う事じゃろうが、うう御老人。」と重く云う。
「貴方《あなた》は?」
「いやさ、名を聞くなら其許《そこもと》からと云う処だが、何も面倒だ。俺は小室《こむろ》と云う、むむ小室と云う、この辺《あたり》の家主なり、差配なりだ。それがどうし
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