ひ》いた、波の引返《ひっかえ》すのが棄《す》てた棹《さお》を攫《さら》つた。棹はひとりでに底知れずの方へツラ/\と流れて行く。

        九

「……太夫様《たゆうさま》……太夫様。」
 偶《ふ》と紫玉は、宵闇《よいやみ》の森の下道《したみち》で真暗《まっくら》な大樹巨木の梢《こずえ》を仰いだ。……思ひ掛《が》けず空から呼掛《よびか》けたやうに聞えたのである。
「一寸《ちょっと》燈《あかり》を、……」
 玉野がぶら下げた料理屋の提灯《ちょうちん》を留《と》めさせて、さし交《かわ》す枝を透かしつゝ、――何事《なにごと》と問ふ玉江に、
「誰だか呼んだやうに思ふんだがねえ。」
 と言ふ……お師匠さんが、樹の上を視《み》て居るから、
「まあ、そんな処《とこ》から。」
「然《そ》うだねえ。」
 紫玉は、はじめて納得したらしく、瞳《ひとみ》をそらす時、髷《まげ》に手を遣《や》つて、釵《かんざし》に指を触れた。――指を触れた釵は鸚鵡《おうむ》である。
「此が呼んだのか知ら。」
 と微酔《ほろよい》の目元を花《はな》やかに莞爾《にっこり》すると、
「あら、お嬢様。」
「可厭《いや》ですよ。」

前へ 次へ
全63ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング