……県に成上《なりあがり》の豪族、色好みの男爵で、面構《つらがまえ》も風采《ふうつき》も巨頭公《あたまでっかち》によう似たのが、劇《しばい》興行のはじめから他に手を貸さないで紫玉を贔屓《ひいき》した、既に昨夜《ゆうべ》もある処で一所になる約束があった。その間《ま》の時間を、紫玉は微行したのである。が、思いも掛けない出来事のために、大分の隙入《ひまいり》をしたものの、船に飛んだ鯉は、そのよしを言づけて初穂というのを、氷詰めにして、紫玉から鎌倉殿へ使《つかい》を走らせたほどなのであった。――
 車の通ずる処までは、もう自動車が来て待っていて、やがて、相会すると、ある時間までは附添って差支えない女弟子の口から、真先《まっさき》に予言者の不思議が漏れた。
 一議に及ばぬ。
 その夜《よ》のうちに、池の島へ足代《あじろ》を組んで、朝は早や法壇が調った。無論、略式である。
 県社の神官に、故実の詳しいのがあって、神燈を調え、供饌《ぐせん》を捧げた。
 島には鎌倉殿の定紋《じょうもん》ついた帷幕《まんまく》を引繞《ひきめぐ》らして、威儀を正した夥多《あまた》の神官が詰めた。紫玉は、さきほどからここに控えたのである。
 あの、底知れずの水に浮いた御幣は、やがて壇に登るべき立女形《たておやま》に対して目触《めざわ》りだ、と逸早く取退《とりの》けさせ、樹立《こだち》さしいでて蔭ある水に、例の鷁首《げきしゅ》の船を泛《うか》べて、半ば紫の幕を絞った裡《うち》には、鎌倉殿をはじめ、客分として、県の顕官、勲位の人々が、杯を置いて籠《こも》った。――雨乞に参ずるのに、杯をめぐらすという故実は聞かぬが、しかし事実である。
 伶人《れいじん》の奏楽一順して、ヒュウと簫《しょう》の音《ね》の虚空に響く時、柳の葉にちらちらと緋《ひ》の袴《はかま》がかかった。
 群集は波を揉《も》んで動揺《なだれ》を打った。
 あれに真白《まっしろ》な足が、と疑う、緋の袴は一段、階《きざはし》に劃《しき》られて、二条《ふたすじ》の紅《べに》の霞を曳《ひ》きつつ、上紫に下|萌黄《もえぎ》なる、蝶鳥の刺繍《ぬい》の狩衣《かりぎぬ》は、緑に透き、葉に靡《なび》いて、柳の中を、するすると、容顔美麗なる白拍子。紫玉は、色ある月の風情して、一千の花の燈《ともし》の影、百を数うる雪の供饌に向うて法壇の正面にすらりと立つ。
 花火の中から、天女が斜《ななめ》に流れて出ても、群集はこの時くらい驚異の念は起すまい。
 烏帽子もともにこの装束は、織ものの模範、美術の表品《ひょうほん》、源平時代の参考として、かつて博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いずれ什物《じゅうもつ》であった。
 さて、遺憾ながら、この晴の舞台において、紫玉のために記すべき振事《ふりごと》は更にない。渠《かれ》は学校出の女優である。
 が、姿は天より天降《あまくだ》った妙《たえ》に艶《えん》なる乙女のごとく、国を囲める、その赤く黄に爛《ただ》れたる峰岳《みねたけ》を貫いて、高く柳の間に懸《かか》った。
 紫玉は恭《うやうや》しく三たび虚空《なかぞら》を拝した。
 時に、宮奴《みややっこ》の装《よそおい》した白丁《はくちょう》の下男が一人、露店の飴屋《あめや》が張りそうな、渋の大傘《おおからかさ》を畳んで肩にかついだのが、法壇の根に顕《あらわ》れた。――これは怪《け》しからず、天津乙女の威厳と、場面の神聖を害《そこな》って、どうやら華魁《おいらん》の道中じみたし、雨乞にはちと行過ぎたもののようだった。が、何、降るものと極《きま》れば、雨具の用意をするのは賢い。……加うるに、紫玉が被《かつ》いだ装束は、貴重なる宝物《ほうもつ》であるから、驚破《すわ》と言わばさし掛けて濡らすまいための、鎌倉殿の内意であった。
 ――さればこそ、このくらい、注意の役に立ったのはあるまい。――
 あわれ、身のおき処がなくなって、紫玉の裾《すそ》が法壇に崩れた時、「状《ざま》を見ろ。」「や、身を投げろ。」「飛込め。」――わッと群集の騒いだ時、……堪《たま》らぬ、と飛上って、紫玉を圧《おさ》えて、生命《いのち》を取留めたのもこの下男で、同時に狩衣を剥《は》ぎ、緋の袴の紐を引解《ひきほど》いたのも――鎌倉殿のためには敏捷《びんしょう》な、忠義な奴《やつ》で――この下男である。
 雨はもとより、風どころか、余《あまり》の人出に、大池には蜻蛉《とんぼ》も飛ばなかった。

       十二

 時を見、程を計って、紫玉は始め、実は法壇に立って、数万の群集を足許《あしもと》に低き波のごとく見下《みおろ》しつつ、昨日《きのう》通った坂にさえ蟻の伝うに似て押覆《おしかえ》す人数《にんず》を望みつつ、徐《おもむろ》に雪の頤《あぎと》に結んだ紫の纓《ひも》を解いて、結目《むすびめ》を胸に、烏帽子を背に掛けた。
 それから伯爵の釵を抜いて、意気込んで一振り振ると、……黒髪の颯《さっ》と捌《さば》けたのが烏帽子の金に裏透いて、さながら金屏風《きんびょうぶ》に名誉の絵師の、松風を墨で流したようで、雲も竜もそこから湧くか、と視《なが》められた。――これだけは工夫した女優の所作で、手には白金《プラチナ》が匕首《あいくち》のごとく輝いて、凄艶《せいえん》比類なき風情であった。
 さてその鸚鵡《おうむ》を空に翳《かざ》した。
 紫玉の※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った瞳《め》には、確《たしか》に天際の僻辺《へきへん》に、美女の掌《て》に似た、白山は、白く清く映ったのである。
 毛筋ほどの雲も見えぬ。
 雨乞の雨は、いずれも後刻の事にして、そのまま壇を降《くだ》ったらば無事だったろう。ところが、遠雷の音でも聞かすか、暗転にならなければ、舞台に馴《な》れた女優だけに幕が切れない。紫玉は、しかし、目前《まのあたり》鯉魚《りぎょ》の神異を見た、怪しき僧の暗示と讖言《しんげん》を信じたのであるから、今にも一片の雲は法衣の袖のように白山の眉に飜るであろうと信じて、しばしを待つ間《ま》を、法壇を二廻り三廻り緋の袴して輪に歩行《ある》いた。が、これは鎮守の神巫《みこ》に似て、しかもなんば、という足どりで、少なからず威厳を損じた。
 群集の思わんほども憚《はばか》られて、腋《わき》の下に衝《つ》と冷き汗を覚えたのこそ、天人の五衰《ごすい》のはじめとも言おう。
 気をかえて屹《きっ》となって、もの忘れした後見《こうけん》に烈《はげ》しくきっかけを渡す状《さま》に、紫玉は虚空に向って伯爵の鸚鵡を投げた。が、あの玩具《おもちゃ》の竹蜻蛉のように、晃々《きらきら》と高く舞った。
「大神楽《だいかぐら》!」
 と喚《わめ》いたのが第一番の半畳で。
 一人口火を切ったから堪らない。練馬大根と言う、おかめと喚く。雲の内侍《ないじ》と呼ぶ、雨しょぼを踊れ、と怒鳴る。水の輪の拡がり、嵐の狂うごとく、聞くも堪えない讒謗罵詈《ざんぼうばり》は雷《いかずち》のごとく哄《どっ》と沸く。
 鎌倉殿は、船中において嚇怒《かくど》した。愛寵《あいちょう》せる女優のために群集の無礼を憤ったのかと思うと、――そうではない。この、好色の豪族は、疾《はや》く雨乞の験《しるし》なしと見て取ると、日の昨《さく》の、短夜もはや半ばなりし紗《しゃ》の蚊帳《かや》の裡《うち》を想い出した。……
 雨乞のためとて、精進潔斎させられたのであるから。
「漕《こ》げ。」
 紫幕の船は、矢を射るように島へ走る。
 一度、駆下りようとした紫玉の緋裳《ひもすそ》は、この船の激しく襲ったために、一度引留められたものである。
「…………」
 と喚く鎌倉殿の、何やら太い声に、最初、白丁《はくちょう》に豆烏帽子で傘《からかさ》を担いだ宮奴《みややっこ》は、島のなる幕の下を這《は》って、ヌイと面《つら》を出した。
 すぐに此奴《こいつ》が法壇へ飛上った、その疾《はや》さ。
 紫玉がもはや、と思い切って池に飛ぼうとする処を、圧《おさ》えて、そして剥《は》いだ。
 女の身としてあらりょうか。
 あの、雪を束《つか》ねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あわれな状《さま》は、月を祭る供物に似て、非ず、旱魃《かんばつ》の鬼一口の犠牲《にえ》である。
 ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわっと泣いた。
 赤ら顔の大入道の、首抜きの浴衣の尻を、七のずまで引めくったのが、苦り切ったる顔して、つかつかと、階《きざはし》を踏んで上った、金方《きんかた》か何ぞであろう、芝居もので。
 肩をむずと取ると、
「何だ、状《ざま》は。小町や静《しずか》じゃあるめえし、増長しやがるからだ。」
 手の裏かえす無情さは、足も手もぐたりとした、烈日に裂けかかる氷のような練絹《ねりぎぬ》の、紫玉のふくよかな胸を、酒焼《さかやけ》の胸に引掴《ひッつか》み、毛脛《けずね》に挟んで、
「立たねえかい。」

       十三

「口惜《くや》しい!」
 紫玉は舷《ふなばた》に縋《すが》って身を震わす。――真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮《すいれん》のごとく漾《ただよ》いつつ。
「口惜しいねえ。」
 車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に歩行《あゆ》みもならず、――金方《きんかた》の計らいで、――万松亭《ばんしょうてい》という汀《みぎわ》なる料理店に、とにかく引籠《ひっこも》る事にした。紫玉はただ引被《ひっかつ》いで打伏した。が、金方は油断せず。弟子たちにも旨を含めた。で、次場所の興行かくては面白かるまいと、やけ酒を煽《あお》っていたが、酔倒れて、それは寝た。
 料理店の、あの亭主は、心|優《やさし》いもので、起居《たちい》にいたわりつ、慰めつ、で、これも注意はしたらしいが、深更のしかも夏の夜《よ》の戸鎖《とざし》浅ければ、伊達巻《だてまき》の跣足《はだし》で忍んで出る隙《すき》は多かった。
 生命《いのち》の惜《おし》からぬ身には、操るまでの造作も要らぬ。小さな通船《かよいぶね》は、胸の悩みに、身もだえするままに揺動《ゆりうご》いて、萎《しお》れつつ、乱れつつ、根を絶えた小船の花の面影は、昼の空とは世をかえて、皓々《こうこう》として雫《しずく》する月の露吸う力もない。
「ええ、口惜しい。」
 乱れがみを※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りつつ、手で、砕けよ、とハタと舷を打つと……時の間《ま》に痩《や》せた指は細くなって、右の手の四つの指環は明星に擬《なぞら》えた金剛石《ダイヤモンド》のをはじめ、紅玉《ルビイ》も、緑宝玉《エメラルド》も、スルリと抜けて、きらきらと、薄紅《うすくれない》に、浅緑に皆水に落ちた。
 どうでもなれ、左を試みに振ると、青玉も黄玉も、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、……竜《たつ》の口は、水の輪に舞う処である。
 ここに残るは、名なればそれを誇《ほこり》として、指にも髪にも飾らなかった、紫の玉ただ一つ。――紫玉は、中高な顔に、深く月影に透かして差覗《さしのぞ》いて、千尋《ちひろ》の淵《ふち》の水底《みなそこ》に、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄干と、あれ、森の梢《こずえ》の白鷺《しらさぎ》の影さえ宿る、櫓《やぐら》と、窓と、楼《たかどの》と、美しい住家《すみか》を視《み》た。
「ぬしにもなって、この、この田舎のものども。」
 縋る波に力あり、しかと引いて水を掴《つか》んで、池に倒《さかさま》に身を投じた。爪尖《つまさき》の沈むのが、釵の鸚鵡《おうむ》の白く羽うつがごとく、月光に微《かすか》に光った。

「御坊様、貴方は?」
「ああ、山国の門附《かどづけ》芸人、誇れば、魔法つかいと言いたいが、いかな、さまでの事もない。昨日《きのう》から御目に掛けた、あれは手品じゃ。」
 坊主は、欄干に擬《まが》う苔蒸《こけむ》した井桁《いげた》に、破法衣《やれごろも》の腰を掛けて、活《い》けるがごとく爛々として眼《まなこ》の輝く青銅の竜の蟠《わだかま》れる、角《つの》の枝に、肱《ひじ》を安らかに笑みつつ言った。
「私に、
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