》、絵《えが》ける鬼火《ひとだま》のごとき一条《ひとすじ》の脈が、竜の口からむくりと湧《わ》いて、水を一文字に、射て疾《と》く、船に近づくと斉《ひと》しく、波はざッと鳴った。
女優の船頭は棹を落した。
あれあれ、その波頭《なみがしら》がたちまち船底を噛《か》むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三尺あとへ引いて、薄波を一|煽《あお》り、その形に煽るや否や、人の立つごとく、空へ大《おおい》なる魚《うお》が飛んだ。
瞬間、島の青柳《あおやぎ》に銀の影が、パッと映《さ》して、魚は紫立ったる鱗《うろこ》を、冴《さ》えた金色《こんじき》に輝やかしつつ颯《さっ》と刎《は》ねたのが、飜然《ひらり》と宙を躍って、船の中へどうと落ちた。その時、水がドブンと鳴った。
舳《みよし》と艫《とも》へ、二人はアッと飛退《とびの》いた。紫玉は欄干に縋《すが》って身を転《か》わす。
落ちつつ胴の間《ま》で、一刎《ひとはね》、刎ねると、そのはずみに、船も動いた。――見事な魚である。
「お嬢様!」
「鯉《こい》、鯉、あら、鯉だ。[#底本では「。」なし]」
と玉江が夢中で手を敲いた。
この大《おおい》なる鯉が、尾鰭《おひれ》を曳《ひ》いた、波の引返《ひっかえ》すのが棄てた棹を攫《さら》った。棹はひとりでに底知れずの方へツラツラと流れて行《ゆ》く。
九
「……太夫様……太夫様。」
偶《ふ》と紫玉は、宵闇《よいやみ》の森の下道《したみち》で真暗《まっくら》な大樹巨木の梢《こずえ》を仰いだ。……思い掛けず空から呼掛けたように聞えたのである。
「ちょっと燈《あかり》を、……」
玉野がぶら下げた料理屋の提灯《ちょうちん》を留めさせて、さし交《かわ》す枝を透かしつつ、――何事と問う玉江に、
「誰だか呼んだように思うんだがねえ。」
と言う……お師匠さんが、樹の上を視《み》ているから、
「まあ、そんな処《ところ》から。」
「そうだねえ。」
紫玉は、はじめて納得したらしく、瞳をそらす時、髷《まげ》に手を遣《や》って、釵に指を触れた。――指を触れた釵は鸚鵡《おうむ》である。
「これが呼んだのかしら。」
と微酔《ほろよい》の目元を花やかに莞爾《にっこり》すると、
「あら、お嬢様。」
「可厭《いや》ですよ。」
と仰山に二人が怯《おび》えた。女弟子の驚いたのなぞは構わないが、読者を怯《おびやか》しては不可《いけな》い。滝壷へ投沈めた同じ白金《プラチナ》の釵が、その日のうちに再び紫玉の黒髪に戻った仔細《しさい》を言おう。
池で、船の中へ鯉が飛込むと、弟子たちが手を拍《う》つ、立騒ぐ声が響いて、最初は女中が小船で来た。……島へ渡した細綱を手繰って、立ちながら操るのだが、馴《な》れたもので、あとを二押三押、屋形船が来ると、由を聞き、魚《うお》を視《み》て、「まあ、」と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったきり、慌《あわただ》しく引返した。が、間《ま》もあらせず、今度は印半纏《しるしばんてん》を被《き》た若いものに船を操《と》らせて、亭主らしい年配《としごろ》な法体《ほったい》したのが漕《こ》ぎつけて、「これはこれは太夫様。」亭主も逸早《いちはや》くそれを知っていて、恭《うやうや》しく挨拶をした。浴衣の上だけれど、紋の着いた薄羽織を引《ひっ》かけていたが、さて、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二尺三貫目は掛《かか》りましょう。」とて、……及び腰に覗《のぞ》いて魂消《たまげ》ている若衆《わかいしゅ》に目配せで頷《うなずか》せて、「かような大魚、しかも出世魚と申す鯉魚《りぎょ》の、お船へ飛込みましたというは、類稀《たぐいまれ》な不思議な祥瑞《しょうずい》。おめでとう存じまする、皆、太夫様の御人徳。続きましては、手前預りまする池なり、所持の屋形船。烏滸《おこ》がましゅうござりますが、従って手前どもも、太夫様の福分、徳分、未曾有《みぞう》の御人気の、はや幾分かおこぼれを頂戴いたしたも同じ儀で、かような心嬉しい事はござりませぬ。なおかくの通りの旱魃《かんばつ》、市内はもとより近郷隣国、ただ炎の中に悶《もだ》えまする時、希有《けう》の大魚の躍りましたは、甘露、法雨やがて、禽獣《きんじゅう》草木《そうもく》に到るまでも、雨に蘇生《よみがえ》りまする前表かとも存じまする。三宝の利益《りやく》、四方の大慶。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝いに、この鯉魚《こい》を肴《さかな》に、祝うて一献、心ばかりの粗酒を差上げとう存じまする。まず風情はなくとも、あの島影にお船を繋《つな》ぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋の方へ移しましょう。」で、辞退も会釈もさせず、紋着《もんつき》の法然頭《ほうねんあたま》は、もう屋形船の方へ腰を据えた。
若衆に取寄せさせた、調度を控えて、島の柳に纜《もや》った頃は、そうでもない、汀《みぎわ》の人立《ひとだち》を遮るためと、用意の紫の幕を垂れた。「神慮の鯉魚、等閑《なおざり》にはいたしますまい。略儀ながら不束《ふつつか》な田舎料理の庖丁をお目に掛けまする。」と、ひたりと直って真魚箸《まなばし》を構えた。
――釵は鯉の腹を光って出た。――竜宮へ往来した釵の玉の鸚鵡《おうむ》である。
「太夫様――太夫様。」
ものを言おうも知れない。――
とばかりで、二声聞いたように思っただけで、何の気勢《けはい》もしない。
風も囁《ささや》かず、公園の暗夜《やみよ》は寂しかった。
「太夫様。」
「太夫様。」
うっかり釵を、またおさえて、
「可厭《いや》だ、今度はお前さんたちかい。」
十
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――水のすぐれ覚ゆるは、
西天竺《せいてんじく》の白鷺池《はくろち》、
じんじょうきょゆうにすみわたる、
昆明池《こんめいち》の水の色、
行末《ゆくすえ》久しく清《す》むとかや。
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「お待ち。」
紫玉は耳を澄《すま》した。道の露芝、曲水の汀にして、さらさらと音する流《ながれ》の底に、聞きも知らぬ三味線の、沈んだ、陰気な調子に合せて、微《かすか》に唄う声がする。
「――坊さんではないかしら……」
紫玉は胸が轟《とどろ》いた。
あの漂泊《さすらい》の芸人は、鯉魚の神秘を視《み》た紫玉の身には、もはや、うみ汁のごとく、唾《つば》、涎《よだれ》の臭い乞食坊主のみではなかったのである。
「……あの、三味線は、」
夜陰のこんな場所で、もしや、と思う時、掻消《かきき》えるように音が留《や》んで、ひたひたと小石を潜《くぐ》って響く水は、忍ぶ跫音《あしおと》のように聞える。
紫玉は立留まった。
再び、名もきかぬ三味線の音が陰々として響くと、
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――日本一にて候ぞと申しける。鎌倉殿ことごとしや、何処《いずこ》にて舞いて日本一とは申しけるぞ。梶原申しけるは、一歳《ひととせ》百日の旱《ひでり》の候いけるに、賀茂川《かもがわ》、桂川《かつらがわ》、水瀬《みなせ》切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候いけるに、――
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聞くものは耳を澄まして袖を合せたのである。
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――有験《うげん》の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、仁王経《にんのうきょう》を講じ奉らば、八大竜王も慈現納受《じげんのうじゅ》たれ給うべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を請《しょう》じ、仁王経を講ぜられしかども、その験《しるし》もなかりけり。また或《ある》人申しけるは、容顔美麗なる白拍子《しらびょうし》を、百人めして、――
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「御坊様。」
今は疑うべき心も失《う》せて、御坊様、と呼びつつ、紫玉が暗中を透《すか》して、声する方《かた》に、縋《すが》るように寄ると思うと、
「燈《ひ》を消せ。」
と、蕭《さ》びたが力ある声して言った。
「提灯《ちょうちん》を……」
「は、」と、返事と息を、はッはッとはずませながら、一度|消損《けしそこ》ねて、慌《あわただ》しげに吹消した。玉野の手は震えていた。
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――百人の白拍子をして舞わせられしに、九十九人舞いたりしに、その験もなかりけり。静《しずか》一人舞いたりとても、竜神|示現《じげん》あるべきか。内侍所《ないしどころ》に召されて、禄《ろく》おもきものにて候にと申したりければ、とても人数《ひとかず》なれば、ただ舞わせよと仰せ下されければ、静が舞いたりけるに、しんむしょうの曲という白拍子を、――
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燈《ひ》を消すと、あたりがかえって朦朧《もうろう》と、薄く鼠色に仄《ほの》めく向うに、石の反橋《そりばし》の欄干に、僧形《そうぎょう》の墨の法衣《ころも》、灰色になって、蹲《うずくま》るか、と視れば欄干に胡坐《あぐら》掻《か》いて唄う。
橋は心覚えのある石橋の巌組《いわぐみ》である。気が着けば、あの、かくれ滝の音は遠くどうどうと鳴って、風のごとくに響くが、掠《かす》れるほどの糸の音《ね》も乱れず、唇を合すばかりの唄も遮られず、嵐の下の虫の声。が、形は著しいものではない、胸をくしゃくしゃと折って、坊主頭を、がく、と俯向《うつむ》けて唄うので、頸《うなじ》を抽《ぬ》いた転軫《てんじん》に掛《かか》る手つきは、鬼が角を弾《はじ》くと言わば厳《いか》めしい、むしろ黒猫が居て顔を洗うというのに適する。
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――なから舞いたりしに、御輿《みこし》の岳《たけ》、愛宕山《あたごやま》の方《かた》より黒雲にわかに出来《いでき》て、洛中《らくちゅう》にかかると見えければ、――
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と唄う。……紫玉は腰を折って地に低く居て、弟子は、その背後《うしろ》に蹲《しゃが》んだ。
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――八大竜王鳴渡りて、稲妻ひらめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏なりければ、さてこそ静の舞に示現ありけるとて、日本一と宣旨を給《たまわ》りけると、承り候。――
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時に唄を留《や》めて黙った。
「太夫様。」
余り尋常な、ものいいだったが、
「は、」と、呼吸《いき》をひいて答えた紫玉の、身動《みじろ》ぎに、帯がキと擦れて鳴ったほど、深く身に響いて聞いたのである。
「癩坊主《かったいぼうず》が、ねだり言を肯《うけご》うて、千金の釵を棄てられた。その心操《こころばえ》に感じて、些細《ささい》ながら、礼心に密《そ》と内証の事を申す。貴女《あなた》、雨乞をなさるが可《よ》い。――天の時、地の利、人の和、まさしく時節じゃ。――ここの大池の中洲の島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。……袴《はかま》、練衣《ねりぎぬ》、烏帽子《えぼし》、狩衣《かりぎぬ》、白拍子《しらびょうし》の姿が可《よ》かろう。衆人めぐり見る中へ、その姿をあの島の柳の上へ高く顕《あらわ》し、大空へ向って拝をされい。祭文《さいもん》にも歌にも及ばぬ。天竜、雲を遣《や》り、雷《らい》を放ち、雨を漲《みなぎ》らすは、明午を過ぎて申《さる》の上刻に分豪《ふんごう》も相違ない。国境の山、赤く、黄に、峰岳《みねたけ》を重ねて爛《ただ》れた奥に、白蓮の花、玉の掌《たなそこ》ほどに白く聳《そび》えたのは、四時《しじ》に雪を頂いて幾万年の白山《はくさん》じゃ。貴女、時を計って、その鸚鵡《おうむ》の釵を抜いて、山の其方《そなた》に向って翳《かざ》すを合図に、雲は竜のごとく湧《わ》いて出よう。――なおその上に、可《よ》いか、名を挙げられい。……」
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――賢人《かしこびと》の釣を垂れしは、
厳陵瀬《げんりょうらい》の河の水。
月影ながらもる夏は、
山田の筧《かけひ》の水とかや。――……
[#ここで字下げ終わり]
十一
翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒くなって人が湧いた。煉瓦《れんが》を羽蟻《はあり》で包んだような凄《すさま》じい群集である。
かりに、鎌倉殿としておこう。この
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