何のお怨《うら》みで?……」
 と息せくと、眇《めっかち》の、ふやけた目珠《めだま》ぐるみ、片頬を掌《たなそこ》でさし蔽《おお》うて、
「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚しい人気ゆえに、恥入るか、もの嫉《ねた》みをして、前芸をちょっと遣《や》った。……さて時に承わるが太夫、貴女《あなた》はそれだけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞をせよ、と言わば、すぐに優伎《わざおぎ》の舞台に出て、小町も静も勤めるのかな。」
 紫玉は巌《いわや》に俯向《うつむ》いた。
「それで通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品はどうじゃろう。」
「ええ、」
 と仰いで顔を視《み》た時、紫玉はゾッと身に沁《し》みた、腐れた坊主に不思議な恋を知ったのである。
「貴方なら、貴方なら――なぜ、さすろうておいで遊ばす。」
 坊主は両手で顔を圧《おさ》えた。
「面目ない、われら、ここに、高い貴い処に恋人がおわしてな、雲霧を隔てても、その御足許《おあしもと》は動かれぬ。や!」
 と、慌《あわただ》しく身を退《しさ》ると、呆《あき》れ顔してハッと手を拡げて立った。
 髪黒く、色雪のごとく、厳《いつく》しく正しく艶《えん》に気高き貴女《きじょ》の、繕わぬ姿したのが、すらりと入った。月を頸《うなじ》に掛けつと見えたは、真白《まっしろ》な涼傘《ひがさ》であった。
 膝と胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、白やかなる手尖《てさき》を軽く、彼が肩に置いて、
「私を打《ぶ》ったね。――雨と水の世話をしに出ていた時、……」
 装《よそおい》は違った、が、幻の目にも、面影は、浦安の宮、石の手水鉢《ちょうずばち》の稚児に、寸分のかわりはない。
「姫様、貴女《あなた》は。」
 と坊主が言った。
「白山へ帰る。」

 ああ、その剣ケ峰の雪の池には、竜女の姫神おわします。
「お馬。」
 と坊主が呼ぶと、スッと畳んで、貴女《きじょ》が地に落した涼傘は、身震《みぶるい》をしてむくと起きた。手まさぐりたまえる緋の総《ふさ》は、たちまち紅《くれない》の手綱に捌《さば》けて、朱の鞍《くら》置いた白の神馬《しんめ》。
 ずっと騎《め》すのを、轡頭《くつわづな》を曳《ひ》いて、トトトト――と坊主が出たが、
「纏頭《しゅうぎ》をするぞ。それ、錦《にしき》を着て行《ゆ》け。」
 かなぐり脱いだ法衣《ころも》を投げると、素裸の坊主が、馬に、ひたと添い、紺碧《こんぺき》なる巌《いわお》の聳《そばだ》つ崕《がけ》を、翡翠《ひすい》の階子《はしご》を乗るように、貴女《きじょ》は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫《びょうぼう》たる広野《ひろの》の中をタタタタと蹄《ひづめ》の音響《ひびき》。
 蹄を流れて雲が漲《みなぎ》る。……
 身を投じた紫玉の助かっていたのは、霊沢金水《れいたくこんすい》の、巌窟の奥である。うしろは五十万坪と称《とな》うる練兵場。
 紫玉が、ただ沈んだ水底《みなそこ》と思ったのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であった。――
 雨を得た市民が、白身に破法衣《やれごろも》した女優の芸の徳に対する新たなる渇仰《かつごう》の光景《ようす》が見せたい。
[#地から1字上げ]大正九(一九二〇)年一月



底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十巻」岩波書店
   1941(昭和16)年5月20日第1刷発行
※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:今井忠夫
2003年8月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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