――有験《うげん》の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、仁王経《にんのうきょう》を講じ奉らば、八大竜王も慈現納受《じげんのうじゅ》たれ給うべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を請《しょう》じ、仁王経を講ぜられしかども、その験《しるし》もなかりけり。また或《ある》人申しけるは、容顔美麗なる白拍子《しらびょうし》を、百人めして、――
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「御坊様。」
 今は疑うべき心も失《う》せて、御坊様、と呼びつつ、紫玉が暗中を透《すか》して、声する方《かた》に、縋《すが》るように寄ると思うと、
「燈《ひ》を消せ。」
 と、蕭《さ》びたが力ある声して言った。
「提灯《ちょうちん》を……」
「は、」と、返事と息を、はッはッとはずませながら、一度|消損《けしそこ》ねて、慌《あわただ》しげに吹消した。玉野の手は震えていた。
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――百人の白拍子をして舞わせられしに、九十九人舞いたりしに、その験もなかりけり。静《しずか》一人舞いたりとても、竜神|示現《じげん》あるべきか。内侍所《ないしどころ》に召されて、禄《ろく》おもきものにて候にと申したりければ、とても人数《ひとかず》なれば、ただ舞わせよと仰せ下されければ、静が舞いたりけるに、しんむしょうの曲という白拍子を、――
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 燈《ひ》を消すと、あたりがかえって朦朧《もうろう》と、薄く鼠色に仄《ほの》めく向うに、石の反橋《そりばし》の欄干に、僧形《そうぎょう》の墨の法衣《ころも》、灰色になって、蹲《うずくま》るか、と視れば欄干に胡坐《あぐら》掻《か》いて唄う。
 橋は心覚えのある石橋の巌組《いわぐみ》である。気が着けば、あの、かくれ滝の音は遠くどうどうと鳴って、風のごとくに響くが、掠《かす》れるほどの糸の音《ね》も乱れず、唇を合すばかりの唄も遮られず、嵐の下の虫の声。が、形は著しいものではない、胸をくしゃくしゃと折って、坊主頭を、がく、と俯向《うつむ》けて唄うので、頸《うなじ》を抽《ぬ》いた転軫《てんじん》に掛《かか》る手つきは、鬼が角を弾《はじ》くと言わば厳《いか》めしい、むしろ黒猫が居て顔を洗うというのに適する。
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――なから舞いたりしに、御輿《みこし》の岳《たけ》、愛宕山《あたごやま》の方《かた》より黒雲にわかに出来《いでき》て、洛中《らくちゅう》にかかると見えければ、――
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 と唄う。……紫玉は腰を折って地に低く居て、弟子は、その背後《うしろ》に蹲《しゃが》んだ。
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――八大竜王鳴渡りて、稲妻ひらめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏なりければ、さてこそ静の舞に示現ありけるとて、日本一と宣旨を給《たまわ》りけると、承り候。――
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 時に唄を留《や》めて黙った。
「太夫様。」
 余り尋常な、ものいいだったが、
「は、」と、呼吸《いき》をひいて答えた紫玉の、身動《みじろ》ぎに、帯がキと擦れて鳴ったほど、深く身に響いて聞いたのである。
「癩坊主《かったいぼうず》が、ねだり言を肯《うけご》うて、千金の釵を棄てられた。その心操《こころばえ》に感じて、些細《ささい》ながら、礼心に密《そ》と内証の事を申す。貴女《あなた》、雨乞をなさるが可《よ》い。――天の時、地の利、人の和、まさしく時節じゃ。――ここの大池の中洲の島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。……袴《はかま》、練衣《ねりぎぬ》、烏帽子《えぼし》、狩衣《かりぎぬ》、白拍子《しらびょうし》の姿が可《よ》かろう。衆人めぐり見る中へ、その姿をあの島の柳の上へ高く顕《あらわ》し、大空へ向って拝をされい。祭文《さいもん》にも歌にも及ばぬ。天竜、雲を遣《や》り、雷《らい》を放ち、雨を漲《みなぎ》らすは、明午を過ぎて申《さる》の上刻に分豪《ふんごう》も相違ない。国境の山、赤く、黄に、峰岳《みねたけ》を重ねて爛《ただ》れた奥に、白蓮の花、玉の掌《たなそこ》ほどに白く聳《そび》えたのは、四時《しじ》に雪を頂いて幾万年の白山《はくさん》じゃ。貴女、時を計って、その鸚鵡《おうむ》の釵を抜いて、山の其方《そなた》に向って翳《かざ》すを合図に、雲は竜のごとく湧《わ》いて出よう。――なおその上に、可《よ》いか、名を挙げられい。……」
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――賢人《かしこびと》の釣を垂れしは、
厳陵瀬《げんりょうらい》の河の水。
月影ながらもる夏は、
山田の筧《かけひ》の水とかや。――……
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       十一

 翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒くなって人が湧いた。煉瓦《れんが》を羽蟻《はあり》で包んだような凄《すさま》じい群集である。
 かりに、鎌倉殿としておこう。この
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