読者を怯《おびやか》しては不可《いけな》い。滝壷へ投沈めた同じ白金《プラチナ》の釵が、その日のうちに再び紫玉の黒髪に戻った仔細《しさい》を言おう。
 池で、船の中へ鯉が飛込むと、弟子たちが手を拍《う》つ、立騒ぐ声が響いて、最初は女中が小船で来た。……島へ渡した細綱を手繰って、立ちながら操るのだが、馴《な》れたもので、あとを二押三押、屋形船が来ると、由を聞き、魚《うお》を視《み》て、「まあ、」と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったきり、慌《あわただ》しく引返した。が、間《ま》もあらせず、今度は印半纏《しるしばんてん》を被《き》た若いものに船を操《と》らせて、亭主らしい年配《としごろ》な法体《ほったい》したのが漕《こ》ぎつけて、「これはこれは太夫様。」亭主も逸早《いちはや》くそれを知っていて、恭《うやうや》しく挨拶をした。浴衣の上だけれど、紋の着いた薄羽織を引《ひっ》かけていたが、さて、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二尺三貫目は掛《かか》りましょう。」とて、……及び腰に覗《のぞ》いて魂消《たまげ》ている若衆《わかいしゅ》に目配せで頷《うなずか》せて、「かような大魚、しかも出世魚と申す鯉魚《りぎょ》の、お船へ飛込みましたというは、類稀《たぐいまれ》な不思議な祥瑞《しょうずい》。おめでとう存じまする、皆、太夫様の御人徳。続きましては、手前預りまする池なり、所持の屋形船。烏滸《おこ》がましゅうござりますが、従って手前どもも、太夫様の福分、徳分、未曾有《みぞう》の御人気の、はや幾分かおこぼれを頂戴いたしたも同じ儀で、かような心嬉しい事はござりませぬ。なおかくの通りの旱魃《かんばつ》、市内はもとより近郷隣国、ただ炎の中に悶《もだ》えまする時、希有《けう》の大魚の躍りましたは、甘露、法雨やがて、禽獣《きんじゅう》草木《そうもく》に到るまでも、雨に蘇生《よみがえ》りまする前表かとも存じまする。三宝の利益《りやく》、四方の大慶。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝いに、この鯉魚《こい》を肴《さかな》に、祝うて一献、心ばかりの粗酒を差上げとう存じまする。まず風情はなくとも、あの島影にお船を繋《つな》ぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋の方へ移しましょう。」で、辞退も会釈もさせず、紋着《もんつき》の法然頭《ほうねんあたま》は、もう屋形船の方へ腰を据えた。
 若衆に取寄せさせた、調度を控えて、島の柳に纜《もや》った頃は、そうでもない、汀《みぎわ》の人立《ひとだち》を遮るためと、用意の紫の幕を垂れた。「神慮の鯉魚、等閑《なおざり》にはいたしますまい。略儀ながら不束《ふつつか》な田舎料理の庖丁をお目に掛けまする。」と、ひたりと直って真魚箸《まなばし》を構えた。
 ――釵は鯉の腹を光って出た。――竜宮へ往来した釵の玉の鸚鵡《おうむ》である。
「太夫様――太夫様。」
 ものを言おうも知れない。――
 とばかりで、二声聞いたように思っただけで、何の気勢《けはい》もしない。
 風も囁《ささや》かず、公園の暗夜《やみよ》は寂しかった。
「太夫様。」
「太夫様。」
 うっかり釵を、またおさえて、
「可厭《いや》だ、今度はお前さんたちかい。」

       十

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――水のすぐれ覚ゆるは、
西天竺《せいてんじく》の白鷺池《はくろち》、
じんじょうきょゆうにすみわたる、
昆明池《こんめいち》の水の色、
行末《ゆくすえ》久しく清《す》むとかや。
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「お待ち。」
 紫玉は耳を澄《すま》した。道の露芝、曲水の汀にして、さらさらと音する流《ながれ》の底に、聞きも知らぬ三味線の、沈んだ、陰気な調子に合せて、微《かすか》に唄う声がする。
「――坊さんではないかしら……」
 紫玉は胸が轟《とどろ》いた。
 あの漂泊《さすらい》の芸人は、鯉魚の神秘を視《み》た紫玉の身には、もはや、うみ汁のごとく、唾《つば》、涎《よだれ》の臭い乞食坊主のみではなかったのである。
「……あの、三味線は、」
 夜陰のこんな場所で、もしや、と思う時、掻消《かきき》えるように音が留《や》んで、ひたひたと小石を潜《くぐ》って響く水は、忍ぶ跫音《あしおと》のように聞える。
 紫玉は立留まった。
 再び、名もきかぬ三味線の音が陰々として響くと、
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――日本一にて候ぞと申しける。鎌倉殿ことごとしや、何処《いずこ》にて舞いて日本一とは申しけるぞ。梶原申しけるは、一歳《ひととせ》百日の旱《ひでり》の候いけるに、賀茂川《かもがわ》、桂川《かつらがわ》、水瀬《みなせ》切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候いけるに、――
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 聞くものは耳を澄まして袖を合せたのである。
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