かりはあろう。
 玉野は上手《あじ》を遣《や》る。
 さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした静《しずか》な水も、棹に掻かれてどこともなしに波紋が起った、そのせいであろう。あの底知らずの竜の口とか、日射《ひざし》もそこばかりはものの朦朧《もうろう》として淀《よど》むあたりに、――微《そよ》との風もない折から、根なしに浮いた板ながら真直《まっすぐ》に立っていた白い御幣が、スースーと少しずつ位置を転《か》えて、夢のように一寸二寸ずつ動きはじめた。
 凝《じっ》と、……視《み》るに連れて、次第に、緩く、柔かに、落着いて弧を描きつつ、その円い線の合する処で、またスースーと、一寸二寸ずつ動出すのが、何となく池を広く大きく押拡げて、船は遠く、御幣ははるかに、不思議に、段々|汀《みぎわ》を隔るのが心細いようで、気も浮《うっ》かりと、紫玉は、便《たより》少ない心持《ここち》がした。
「大丈夫かい、あすこは渦を巻いているようだがね。」
 欄干に頬杖したまま、紫玉は御幣を凝視《みつ》めながら言った。
「詰《つま》りませんわ、少し渦でも巻かなけりゃ、余《あんま》り静で、橋の上を這っているようですもの、」
 とお転婆《てんば》の玉江が洒落《しゃれ》でもないらしく、
「玉野さん、船をあっちへ遣ってみないか?……」
 紫玉が圧《おさ》えて、
「不可《いけな》いよ。」
「いいえ、何ともありゃしませんわ。それだし、もしか、船に故障があったら、おーいと呼ぶか、手を敲《たた》けば、すぐに誰か出て来るからって、女中がそう言っていたんですから。」とまた玉江が言う。
 成程、島を越した向う岸の萩の根に、一人乗るほどの小船が見える。中洲の島で、納涼《すずみ》ながら酒宴をする時、母屋《おもや》から料理を運ぶ通船《かよいぶね》である。
 玉野さえ興に乗ったらしく、
「お嬢様、船を少し廻しますわ。」
「だって、こんな池で助船《たすけぶね》でも呼んでみたが可《い》い、飛んだお笑い草で末代までの恥辱じゃあないか、あれお止《よ》しよ。」
 と言うのに、――逆について船がぐいと廻りかけると、ざぶりと波が立った。その響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離れて、小さな浮木《うき》ほどになっていたのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水の面《おも》にぴたりとついたと思うと、罔竜《あまりょう》の頭《かしら》、絵《えが》ける鬼火《ひとだま》のごとき一条《ひとすじ》の脈が、竜の口からむくりと湧《わ》いて、水を一文字に、射て疾《と》く、船に近づくと斉《ひと》しく、波はざッと鳴った。
 女優の船頭は棹を落した。
 あれあれ、その波頭《なみがしら》がたちまち船底を噛《か》むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三尺あとへ引いて、薄波を一|煽《あお》り、その形に煽るや否や、人の立つごとく、空へ大《おおい》なる魚《うお》が飛んだ。
 瞬間、島の青柳《あおやぎ》に銀の影が、パッと映《さ》して、魚は紫立ったる鱗《うろこ》を、冴《さ》えた金色《こんじき》に輝やかしつつ颯《さっ》と刎《は》ねたのが、飜然《ひらり》と宙を躍って、船の中へどうと落ちた。その時、水がドブンと鳴った。
 舳《みよし》と艫《とも》へ、二人はアッと飛退《とびの》いた。紫玉は欄干に縋《すが》って身を転《か》わす。
 落ちつつ胴の間《ま》で、一刎《ひとはね》、刎ねると、そのはずみに、船も動いた。――見事な魚である。
「お嬢様!」
「鯉《こい》、鯉、あら、鯉だ。[#底本では「。」なし]」
 と玉江が夢中で手を敲いた。
 この大《おおい》なる鯉が、尾鰭《おひれ》を曳《ひ》いた、波の引返《ひっかえ》すのが棄てた棹を攫《さら》った。棹はひとりでに底知れずの方へツラツラと流れて行《ゆ》く。

       九

「……太夫様……太夫様。」
 偶《ふ》と紫玉は、宵闇《よいやみ》の森の下道《したみち》で真暗《まっくら》な大樹巨木の梢《こずえ》を仰いだ。……思い掛けず空から呼掛けたように聞えたのである。
「ちょっと燈《あかり》を、……」
 玉野がぶら下げた料理屋の提灯《ちょうちん》を留めさせて、さし交《かわ》す枝を透かしつつ、――何事と問う玉江に、
「誰だか呼んだように思うんだがねえ。」
 と言う……お師匠さんが、樹の上を視《み》ているから、
「まあ、そんな処《ところ》から。」
「そうだねえ。」
 紫玉は、はじめて納得したらしく、瞳をそらす時、髷《まげ》に手を遣《や》って、釵に指を触れた。――指を触れた釵は鸚鵡《おうむ》である。
「これが呼んだのかしら。」
 と微酔《ほろよい》の目元を花やかに莞爾《にっこり》すると、
「あら、お嬢様。」
「可厭《いや》ですよ。」
 と仰山に二人が怯《おび》えた。女弟子の驚いたのなぞは構わないが、
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