伯爵の釵
泉鏡花

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)このもの語《がたり》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)入道雲|湧《わ》き、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
−−

       一

 このもの語《がたり》の起った土地は、清きと、美しきと、二筋の大川、市の両端を流れ、真中央《まんなか》に城の天守なお高く聳《そび》え、森黒く、濠《ほり》蒼《あお》く、国境の山岳は重畳《ちょうじょう》として、湖を包み、海に沿い、橋と、坂と、辻の柳、甍《いらか》の浪の町を抱《いだ》いた、北陸の都である。
 一年《ひととせ》、激しい旱魃《かんばつ》のあった真夏の事。
 ……と言うとたちまち、天に可恐《おそろ》しき入道雲|湧《わ》き、地に水論の修羅の巷《ちまた》の流れたように聞えるけれど、決して、そんな、物騒な沙汰《さた》ではない。
 かかる折から、地方巡業の新劇団、女優を主とした帝都の有名なる大一座が、この土地に七日間の興行して、全市の湧くがごとき人気を博した。
 極暑の、旱《ひでり》というのに、たといいかなる人気にせよ、湧くの、煮えるのなどは、口にするも暑くるしい。が、――諺《ことわざ》に、火事の折から土蔵の焼けるのを防ぐのに、大盥《おおだらい》に満々と水を湛《たた》え、蝋燭《ろうそく》に灯を点じたのをその中に立てて目塗《めぬり》をすると、壁を透《とお》して煙が裡《うち》へ漲《みなぎ》っても、火気を呼ばないで安全だと言う。……火をもって火を制するのだそうである。
 ここに女優たちの、近代的情熱の燃ゆるがごとき演劇は、あたかもこの轍《てつ》だ、と称《とな》えて可《い》い。雲は焚《や》け、草は萎《しぼ》み、水は涸《か》れ、人は喘《あえ》ぐ時、一座の劇はさながら褥熱《じょくねつ》に対する氷のごとく、十万の市民に、一剤、清涼の気を齎《もた》らして剰余《あまり》あった。
 膚《はだ》の白さも雪なれば、瞳も露の涼しい中にも、拳《こぞ》って座中の明星と称《たた》えられた村井|紫玉《しぎょく》が、
「まあ……前刻《さっき》の、あの、小さな児《こ》は?」
 公園の茶店に、一人|静《しずか》に憩いながら、緋塩瀬《ひしおぜ》の煙管筒《きせるづつ》の結目《むすびめ》を解掛けつつ、偶《ふ》と思った。……
 髷《まげ》も女優巻でなく、わざとつい通りの束髪で、薄化粧の淡洒《あっさり》した意気造《いきづくり》。形容《しな》に合せて、煙草入《たばこいれ》も、好みで持った気組の婀娜《あだ》。
 で、見た処は芸妓《げいしゃ》の内証歩行《ないしょあるき》という風だから、まして女優の、忍びの出、と言っても可《い》い風采《ふう》。
 また実際、紫玉はこの日は忍びであった。演劇《しばい》は昨日《きのう》楽になって、座の中には、直ぐに次《つぎ》興行の隣国へ、早く先乗《さきのり》をしたのが多い。が、地方としては、これまで経歴《へめぐ》ったそこかしこより、観光に価値《あたい》する名所が夥《おびただし》い、と聞いて、中二日ばかりの休暇《やすみ》を、紫玉はこの土地に居残った。そして、旅宿に二人附添った、玉野、玉江という女弟子も連れないで、一人で密《そっ》と、……日盛《ひざかり》もこうした身には苦にならず、町中《まちなか》を見つつ漫《そぞろ》に来た。
 惟《おも》うに、太平の世の国の守《かみ》が、隠れて民間に微行するのは、政《まつりごと》を聞く時より、どんなにか得意であろう。落人《おちゅうど》のそれならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさえ、我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、その都度、ハッと隠れ忍んで、微笑《ほほえ》み微笑み通ると思え。
 深張《ふかばり》の涼傘《ひがさ》の影ながら、なお面影は透き、色香は仄《ほの》めく……心地すれば、誰《たれ》憚《はばか》るともなく自然《おのず》から俯目《ふしめ》に俯向《うつむ》く。謙譲の褄《つま》はずれは、倨傲《きょごう》の襟より品を備えて、尋常な姿容《すがたかたち》は調って、焼地に焦《い》りつく影も、水で描いたように涼しくも清爽《さわやか》であった。
 わずかに畳の縁《へり》ばかりの、日影を選んで辿《たど》るのも、人は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、鯨に乗って人魚が通ると見たであろう。……素足の白いのが、すらすらと黒繻子《くろじゅす》の上を辷《すべ》れば、溝《どぶ》の流《ながれ》も清水の音信《おとずれ》。
 で、真先《まっさき》に志したのは、城の櫓《やぐら》と境を接した、三つ二つ、全国に指を屈する
次へ
全14ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング