三

 その御手洗の高い縁に乗っている柄杓《ひしゃく》を、取りたい、とまた稚児がそう言った。
 紫玉は思わず微笑《ほほえ》んで、
「あら、こうすれば仔細《わけ》ないよ。」
 と、半身を斜めにして、溢れかかる水の一筋を、玉の雫《しずく》に、颯《さっ》と散らして、赤く燃ゆるような唇に請《う》けた。ちょうど渇《かわ》いてもいたし、水の潔《きよ》い事を見たのは言うまでもない。
「ねえ、お前。」
 稚児が仰いで、熟《じっ》と紫玉を視《み》て、
「手を浄《きよ》める水だもの。」
 直接《じか》に吻《くち》を接《つけ》るのは不作法だ、と咎《とが》めたように聞えたのである。
 劇壇の女王《にょおう》は、気色《けしき》した。
「いやにお茶がってるよ、生意気な。」と、軽くその頭《つむり》を掌《てのひら》で叩《たた》き放しに、衝《つ》と広前を切れて、坂に出て、見返りもしないで、さてやがてこの茶屋に憩ったのであった。――
 今思うと、手を触れた稚児の頭《つむり》も、女か、男か、不思議にその感覚が残らぬ。気は涼しかったが、暑さに、いくらか茫《ぼう》としたものかも知れない。
「娘《ねえ》さん、町から、この坂を上る処に、お宮がありますわね。」
「はい。」
「何と言う、お社です。」
「浦安神社でございますわ。」と、片手を畳に、娘は行儀正しく答えた。
「何神様が祭ってあります。」
「お父さん、お父さん。」と娘が、つい傍《そば》に、蓮池《はすいけ》に向いて、(じんべ)という膝《ひざ》ぎりの帷子《かたびら》で、眼鏡の下に内職らしい網をすいている半白の父を呼ぶと、急いで眼鏡を外して、コツンと水牛の柄を畳んで、台に乗せて、それから向直って、丁寧に辞儀をして、
「ええ、浦安様は、浦安かれとの、その御守護じゃそうにござりまして。水をばお司《つかさど》りなされます、竜神と申すことでござります。これの、太夫様にお茶を替えて上げぬかい。」
 紫玉は我知らず衣紋《えもん》が締《しま》った。……称《とな》えかたは相応《そぐ》わぬにもせよ、拙《へた》な山水画の裡《なか》の隠者めいた老人までが、確か自分を知っている。
 心着けば、正面神棚の下には、我が姿、昨夜《ゆうべ》も扮《ふん》した、劇中|女主人公《ヒロイン》の王妃なる、玉の鳳凰《ほうおう》のごときが掲げてあった。
「そして、……」
 声も朗かに、且つ
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