から、天女が斜《ななめ》に流れて出ても、群集はこの時くらい驚異の念は起すまい。
烏帽子もともにこの装束は、織ものの模範、美術の表品《ひょうほん》、源平時代の参考として、かつて博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いずれ什物《じゅうもつ》であった。
さて、遺憾ながら、この晴の舞台において、紫玉のために記すべき振事《ふりごと》は更にない。渠《かれ》は学校出の女優である。
が、姿は天より天降《あまくだ》った妙《たえ》に艶《えん》なる乙女のごとく、国を囲める、その赤く黄に爛《ただ》れたる峰岳《みねたけ》を貫いて、高く柳の間に懸《かか》った。
紫玉は恭《うやうや》しく三たび虚空《なかぞら》を拝した。
時に、宮奴《みややっこ》の装《よそおい》した白丁《はくちょう》の下男が一人、露店の飴屋《あめや》が張りそうな、渋の大傘《おおからかさ》を畳んで肩にかついだのが、法壇の根に顕《あらわ》れた。――これは怪《け》しからず、天津乙女の威厳と、場面の神聖を害《そこな》って、どうやら華魁《おいらん》の道中じみたし、雨乞にはちと行過ぎたもののようだった。が、何、降るものと極《きま》れば、雨具の用意をするのは賢い。……加うるに、紫玉が被《かつ》いだ装束は、貴重なる宝物《ほうもつ》であるから、驚破《すわ》と言わばさし掛けて濡らすまいための、鎌倉殿の内意であった。
――さればこそ、このくらい、注意の役に立ったのはあるまい。――
あわれ、身のおき処がなくなって、紫玉の裾《すそ》が法壇に崩れた時、「状《ざま》を見ろ。」「や、身を投げろ。」「飛込め。」――わッと群集の騒いだ時、……堪《たま》らぬ、と飛上って、紫玉を圧《おさ》えて、生命《いのち》を取留めたのもこの下男で、同時に狩衣を剥《は》ぎ、緋の袴の紐を引解《ひきほど》いたのも――鎌倉殿のためには敏捷《びんしょう》な、忠義な奴《やつ》で――この下男である。
雨はもとより、風どころか、余《あまり》の人出に、大池には蜻蛉《とんぼ》も飛ばなかった。
十二
時を見、程を計って、紫玉は始め、実は法壇に立って、数万の群集を足許《あしもと》に低き波のごとく見下《みおろ》しつつ、昨日《きのう》通った坂にさえ蟻の伝うに似て押覆《おしかえ》す人数《にんず》を望みつつ、徐《おもむろ》に雪の頤《あぎと》に結んだ紫の纓《ひも》を解いて、結目《むす
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