そ》ぐと聞く、戦国の余残《なごり》だそうである。
 紫玉は釵を洗った。……艶《えん》なる女優の心を得た池の面《おも》は、萌黄《もえぎ》の薄絹のごとく波を伸べつつ拭《ぬぐ》って、清めるばかりに見えたのに、取って黒髪に挿そうとすると、ちっと離したくらいでは、耳の辺《はた》へも寄せられぬ。鼻を衝《つ》いて、ツンと臭い。
「あ、」と声を立てたほどである。
 雫《しずく》を切ると、雫まで芬《ぷん》と臭《にお》う。たとえば貴重なる香水の薫《かおり》の一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果《はて》は指環の緑碧紅黄《りょくへきこうこう》の珠玉の数にも、言いようのない悪臭が蒸《いき》れ掛《かか》るように思われたので。……
「ええ。」
 紫玉はスッと立って、手のはずみで一|振《ふり》振った。
「ぬしにおなりよ。」
 白金《プラチナ》の羽の散る状《さま》に、ちらちらと映ると、釵は滝壺に真蒼《まっさお》な水に沈んで行《ゆ》く。……あわれ、呪《のろ》われたる仙禽《せんきん》よ。卿《おんみ》は熱帯の鬱林《うつりん》に放たれずして、山地の碧潭《へきたん》に謫《たく》されたのである。……トこの奇異なる珍客を迎うるか、不可思議の獲《え》ものに競うか、静《しずか》なる池の面《も》に、眠れる魚《うお》のごとく縦横に横《よこた》わった、樹の枝々の影は、尾鰭《おひれ》を跳ねて、幾千ともなく、一時《いちどき》に皆揺動いた。
 これに悚然《ぞっ》とした状《さま》に、一度すぼめた袖を、はらはらと翼のごとく搏《たた》いたのは、紫玉が、可厭《いとわ》しき移香《うつりが》を払うとともに、高貴なる鸚鵡《おうむ》を思い切った、安からぬ胸の波動で、なお且つ飜々《はらはら》とふるいながら、衝《つ》と飛退《とびの》くように、滝の下行く桟道の橋に退《の》いた。
 石の反橋《そりばし》である。巌《いわ》と石の、いずれにも累《かさな》れる牡丹《ぼたん》の花のごときを、左右に築き上げた、銘を石橋《しゃっきょう》と言う、反橋の石の真中《まんなか》に立って、吻《ほ》と一息した紫玉は、この時、すらりと、脊も心も高かった。

       七

 明眸《めいぼう》の左右に樹立《こだち》が分れて、一条《ひとすじ》の大道、炎天の下《もと》に展《ひら》けつつ、日盛《ひざかり》の町
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